――6日目。
いまだにどうしたらいいのか、選択の糸口すらつかめないまま、ほとんど惰性で学校に行こうとドアを開けると、意外な人が立っていた。
「おはよう」
「おはよう……、ございます……」
同い年なのに、思わず敬語になってしまうほどの威圧感。腰の下までありそうな長い、茶色い髪が朝日を受けて、金色に輝く。
「これから出るとこ?」
高いところから僕を見降ろして、恐らく自分ではまったく意識しないままに、悠木さんは尊大な口調で言った。
「は、はい……」
おののく僕を見降ろしたまま、ん、というように顎で玄関先の道路を示す。
これは、一緒に学校行こうって、意味か……?
今年のバレンタイン、僕は悠木さんのチョコレートを作る手伝いをすることになった。悠木さんがチョコを渡したかったのは同性のちはるで、彼女の恋は報われなかったのだけれど、でも今でもあきらめることなく、一途に想いを寄せているらしい。
二年生になって、僕らは隣のクラスになったから、廊下なんかで顔を合わせる機会は多い。そのとき少し挨拶を交わしたりすることはあるけれど、でもこうやって、朝から訪ねてくるなんて……。
どういうわけか、悠木さんは布に覆われた長い棒のようなものを持っていた。
あれ?
悠木さん、また薙刀、始めたのかな?
悠木さんはスポーツ推薦で強豪校に行くような薙刀の達人で、でも足を怪我して学校を辞めざるを得なくなり、それでウチの学校に転校してきたのだけど……。
足はもう、いいのかな?
趣味程度なら、大丈夫なのかな? でも、ウチの学校に、薙刀部なんか……。
そう思って表に出たとき、僕は思わず、声を上げた。
「あ……」
そこに、ちはるが立っていた。
羞恥んだような、気の弱い。ぎこちない笑顔も、いつもと同じように襟元でしっかりと結ばれたリボンも、よく見慣れたものだ。
ただ、いつもお下げにリボンでまとめられていた髪は、まるで男の子のように、短く切り揃えられていた。
「お、おはよう……!」
ちょっと震えながら、でも僕をまっすぐに見て、ちはるは言った。
「おはよう……。もう、外に出ても……」
言いかけた僕の言葉を遮って、ちはるは言った。
「どう、かな……? ママに、切ってもらったんだけど……、こんなに短くするの初めてだから、なんだか、恥ずかしいんだけど……」
きっと、奈々さんが切ったんだろう。
こんなに髪を短くしたちはるは、初めて見た。幼稚園から高校まで、ずっと一緒の僕だけど、ちはるはずっと髪を長く伸ばしていて、いかにも女の子って感じの格好が好きで……。
でも。
「似合ってる」
僕は言った。
心をこめて、言葉の意味だけじゃなくて、僕が感じているものを全部伝えたくて、そう言った。
「すごく、似合ってる」
なんだか、目蓋の辺りが、じんわりと熱かった。
「あたし、今日から春野の、送り迎えするから」
僕の後ろに立っていた悠木さんが、ぶっきらぼうな調子で言った。
「悠木さんが……?」
「岩田って子に、連絡もらって。仕事あって、朝とか来れないからって。あたしなら、毎日、来れるし」
とん、と地面を薙刀の柄で叩いて、無愛想きわまる調子で言う。
そっか、岩田くんが連絡を……。
そうなの……、と、ちはるがおずおずと口を開く。
「ごめんね……、迷惑掛けて……。でも、昨日もね、悠木さんに、付き合ってもらって、散歩したんだよね? ちょっと怖かったけど、でも悠木さんが一緒だったから、安心だった」
「う、うん」
ちはるが目を向けると、悠木さんははっきり分かるほど、顔を赤くした。
「誰が襲ってきても、心配ないから。あたし、容赦しない」
本当に容赦のない口調だった。
悠木さんの言葉に、ありがとう、と呟いて、ちょっとだけ微笑んだちはるは僕に向き直った。
「だから、こーちゃん、私は、大丈夫。私のことは、大丈夫だから」
ちはるの言葉に、僕は思わず、きょとんとしてしまった。
「え……、僕?」
ちはるは晴れやかな笑顔を作った。でもまだ瞳は不安に揺れていて、でも一生懸命頑張って、笑っている。
「こーちゃん、なにか、大変なことがあるんでしょう? ずっと、様子ヘンだったし、それに、ノアちゃんも、なんだかいつもとちがうし……」
「そんなこと……」
そう言いかけて、でも僕は口をつぐんだ。僕がいくらごまかしたって、この幼馴染みには、きっとなんでも、お見通しだ。
「で、でもね……。私がこんなこと言うの、おかしいけど……」
ちはるがぐっと拳を握って、顔を赤くした。
「こ、こーちゃんなら、大丈夫!」
「大丈夫って……?」
「わ、私、こーちゃんがどんな大変なことに巻き込まれてるか分からないし、ノアちゃんがどんな大変なことになってるのか、分からないけど、でも、こーちゃんだったら、大丈夫だよ! きっと、上手くいくよ!」
うまく、行くってえ。
目の前のちはるの笑顔に、あかねさんの顔が重なる。
なんで二人とも、そんなこと言えるんだろう?
「こーちゃん、ノアちゃんの助けに、なってあげてね? 私、よく知らないけど、ノアちゃんが……、ノアちゃんが普通の子じゃないってことは、分かる。日本にお菓子の勉強しに来ただけじゃないってことも、なんとなくだけど、分かる」
「ちはる……」
「だから、こーちゃんが助けてあげないと! 私なら、大丈夫だから!」
いつもの勢いだけの人助けモードじゃなく、一言一言を大切にするように、ちはるは言った。やっぱりまだ、表にいるのが怖いんだろう。悠木さんや僕が一緒でも、きっと怖いに決まってる。でも、ちはるは、ありったけの勇気を出してここにいて、僕に大丈夫って言ってくれる。
なんだろう、この感じ。
感謝? 尊敬? 感動?
ちがう。もっと違うもの。すごく、大切な気持ち……。
「そろそろ、行くか」
「うん!」
悠木さんが言って、僕たちは朝の道を学校に向かって歩き出した。
そして、並んで歩く、悠木さんとちはるの背中を見つめていた僕の中には、なにかが、小さいけれど、しっかりした形を作りつつあった。
つづく