「よお、お前、おたふくだったんだって? 大丈夫かよ、男子としては?」
「局部が腫れていたなら、色々と、諦めたほうがいい」
久しぶりに行った学校では、里見と大竹がいつものように、明るく話しかけてくれる。
「なんか、変な風邪、流行ってんのかね? 春野ちゃんもしばらく休んでるよな。そういや、綾野ちゃんも風邪引いたらしくてさあ」
「そうなんだ……」
七日後の朝、迎えに行きます。
綾野さんはそう言っていた。
きっと、綾野さんがこの学校に入学してきたのは、僕と接触するためだったのだろう。僕が協力しようとしまいと、もしかして、綾野さんが学校に来ることは、もうないのかもしれない。
「お前がいない間、ホント、大変だったんだぜえ?」
「ある意味、前よりも」
仲のいい子たちでグループを作って話す子、やってこなかった宿題を写す子、机に突っ伏して寝ている子。いつもの、ごくありふれた朝の教室。なんだかその景色は、今朝の空のように、奇妙に心に染みた。
「綾野ちゃんが休んで、唐島さんの日本文化特集も終わったと思って安心してたら、今度は恋の季節が来たらしくて」
「彼氏が、出来たらしい」
「それが相手、誰だと思う? 吉田だって。ほら、俺らとタメの、あの爽やか好青年。なんか、去年からラブレターとか出してたらしくてさ」
「バレンタインにも、得体の知れないお菓子を渡していた」
「へええ……、そうなんだ……」
二人の話に適当に相槌を打つ。
きっと、少し前までなら、僕も夢中になって話に参加していただろう。でも、前とは、何かがちがっていた。決定的に。
「おーい、席に着けえ!」
「きりーつ」
先生が入って来て、学級委員が号令を掛けてホームルームが始まる。
あなたは、特別な存在なんです。
綾野さんはそう言った。
特別な存在。
言うまでもないけれど、僕にはお菓子を作ること以外、特技と言える特技はない。勉強はダメだし、運動はもっとダメだし、かといって絵が上手かったり楽器が弾けたり歌が上手だったりもしない。特別だなんて言われたことは一度もないし、そうなりたいと思ったこともない。
でも、綾野さんは僕を、特別な存在だと言った。本当に運命を書き換えられると。
もし、僕が本当に特別な存在で、運命を書き換えることで、この平和な日常を、穏やかな時間を、幸せな“普通”を守れるのなら、僕はユニティに協力するべきなんだろうか?
ふと、1919年のイレギュラさんは、どんなふうだったのかなと、思った。
劇作家を目指していた、ちょっと夢見がちな、でも心の優しい青年。想像することしかできないけれど、もしかして僕のように、ごくごく普通の人だったんだろう。
そしてある日、突然、もう一人の“ノア”ちゃんと出会った。
その出会いはどんなだっただろう。そのイレギュラさんも銃で撃たれたり殴られたり蹴られたり、したのかな。僕のお菓子をノアちゃんが喜んでくれたように、その人が書くものを、もうひとりの“ノア”ちゃんも、楽しんで読んだのかな。どんな時間を、2人は過ごしたのかな。
頭の中に、古めかしい服装の、2人の男女の姿が浮かぶ。男の子はちょっとぼんやりしていて、女の子は仏頂面で。
きっと、2人は一緒に、色んな経験をしただろう。うれしかったり、悲しかったり、むっとしたり。絶対に忘れたくない景色を、たくさんたくさん、一緒に見ただろう。
でも、やがて、運命がおかしくなった。彼の力をきっかけに、戦争が始まり大勢の人が強制収容所に入れられて、そして2人は別れ別れになった。それだけじゃない。きっと、イレギュラさんの大切な人も、たくさん傷ついて、命を落としただろう。
そのときイレギュラさんは、どう思ったのだろう。
自分の特別な力を恨んだだろうか? 自分に特別な力があることを自覚すればよかったと後悔しただろうか? 自分が特別だってことを、もっと早く、認めておけばと思っただろうか?
あなたは、特別。
再び耳に蘇った綾野さんの声は、本物とは違って、暗く湿った気配を帯びていた。
そんなもの、僕は背負いきれない。自分の事だけで手一杯の僕には、特別なんて言葉は、重すぎる。
つづく