『回る回る運命の輪回る3 君と僕と、未来の世界』19話

霧之内川の河川敷へは、家から十分も掛からない。
たぶんそうだろうと予想していた通り、僕が大きな石が転がる河原に足を踏み入れたときにはもう、腹話術師さんの姿があった。
「ご足労願って、申し訳ないね」
腹話術師さんは、今日はジーンズにカジュアルなジャケットという姿で、夕方の川面を渡る五月の風に心地よげに目を細めていた。
「ニュースは、見たかい?」
「……はい」
そう、と腹話術師さんは満足げにうなずいた。
「どう、思った?」
「どう、って……」
穏やかな口調で尋ねられて、僕は答えに詰まった。
「よく、分かりません……」
自分の声が小さくなっているのが分かった。

きっと、自分たちにはこんなことが出来るんだ、人の命を助けることができるんだ、自慢げな口調でそう言うだろうと、僕はなぜだか決めてかかっていたのだ。
「まあ、そうだろう」
でも、もっと追及してくるだろうと思っていた腹話術師さんは、さらりと言った。
「あのマンションは、遅かれ早かれ倒壊の危険があった。我々がしたのはそれを少し早めたことと、周りの運命を操作して、死傷者をひとりも出さなかったことだけだ。あれが我々の理想だということを、分かってくれればいい。運命は、従うためにあるのではない。変えるために、ある。我々がそう考えていることを、知ってくれればいい」

最後の言葉に、ほんの少し、熱がこもったように思えたけれど、腹話術師さんの言葉は、やっぱり静かなものだった。
「で、この間の話が聞きたいのだろう? 君と、ソサエティの工作員が出会ったときのことを?」
身構えかけた瞬間に、腹話術師さんは話を変える。
「あ、あの……、はい……」
「私もすべてを知っているわけではない。だから、この話には色々と不足している部分がある。まずそれを覚えておいてくれ」
腹話術師さんの口調はあくまでも誠実で、正直そうで、なんだか不思議なのだけど、でも僕は腹話術師さんに、好感めいたものを抱いた。
「すべての始まりは二十世紀の初頭、1919年だ」

でも腹話術師さんがそんなことを言い出したので、瞬間、なにも考えられなくなった。
「せんきゅうひゃく……?」
今、って、21世紀だよね?
「ちょ、ちょっと待って……、僕が聞きたいのは、そんな話じゃ……」
言いかけた僕を、腹話術師さんが軽く手を挙げて押しとどめる。
「まあ、待ち給え。君の気持ちは、分かる。けれど、ここから話を始めることが、必要なんだ」
「はあ……」
僕とノアちゃんの話を聞こうとしていただけなのに、いきなり世界史の授業のような年号を言われて戸惑いながら、僕は仕方なく口を閉ざした。

「イレギュラというのは、いつの時代にも、どの場所にも出現する。百年近く前も、同じだ。1919年のドイツ、その頃は別の名前で呼ばれていたが、その場所にも、強い力を持ったイレギュラがいた。ソサエティは、やはりそのイレギュラである青年に監視をつけた」
なんだか、本当に世界史の話になってきたな、そう思いながら、僕は腹話術師さんの話に耳を傾けた。
「君には未来が見え、私に人を操る力があるように、彼にも力があった。彼の力は、言うなれば“言葉”だ」
「言葉?」
「そう。言霊という言葉を聞いたことがあるだろう? 彼は言霊を操ることが出来た。彼の言葉は人々を魅了し、奮い立たせ、勇気づける。もちろん、逆のことも可能だ。彼はまだ学生で、詩や戯曲を発表して、世間の注目を集めつつあった。そういう力は世の中に大きな影響を与える。だから、ソサエティは工作員を配置して、彼を監視させることにした。きっと、当初は危険視して排除しようとして、失敗したのだろう」

腹話術師さんの語る遠い昔の物語、その白黒の物語に次第に色がついていく。
危険視されて、排除されようとするイレギュラ。それに失敗し、監視する工作員。
それはまさに、僕とノアちゃんのことだ。
「監視は順調に続いた。イレギュラと工作員の相性が良かったのかもしれない。イレギュラによる運命律への影響も、最小に抑えられていた。が、そこでひとつの手違いが起きた」
「手違い?」
ああ、と腹話術師さんはうなずく。
「きっかけは、運命読みのミスだ。イレギュラが、接触してはいけない人間と接触してしまった。

イレギュラと接触したのは、平凡な若者だった。国の将来を憂い、社会の変革を志す、立派ではあるけれども、少し愚かな、どこにでもいる若者。彼はイレギュラの“言葉”にたちまち魅了された。簡潔ではあるが力強く、人の心をとらえる言葉。
そうして彼は思った。人々に気高く高邁な理想を伝え、国のために自らを犠牲にする美徳を謳い、人々を行動に駆り立てるために必要なものは、まさに、この言葉だと。
そして彼は、自らが加わる政治結社の幹部に、イレギュラを引き合わせた。その幹部は頭の切れる男だった。イレギュラの言葉の特徴、抑揚、発語の間、それをすべて分析し、自分たちのリーダーの演説文を作り上げた。その演説に、当時の大衆は熱狂した。当時のドイツは暗い時代だった。経済は低迷し、職はなく、不満は溜まっていく一方だ。そして大衆の支持を得たそのグループ、地方の、ごくごく小さな集団にすぎなかったその政治組織はみるみるうちに勢力を拡大して、やがては一国を動かす政党にのし上がった」

僕の頭の中に、聞いたことのないはずの軍靴の音が響いた気がした。
「その名前をドイツ国家労働党という。現代ではナチスという名のほうが通りがいいか。遂に彼らは政権を獲得して……、それからどうなったかというのは、知っているね? ドイツは勢力の拡大を狙って戦争を始め、国内ではユダヤ人や障碍者、ありとあらゆる“普通ではない人たち”を強制収容所に送り込んだ。そのきっかけが〈イレギュラ〉の力だったのは、皮肉なものだ」

僕は半ば呆然としながら腹話術師さんの話を聞いていた。これは本当にあったことなんだろうか? そんなふうに、イレギュラの力が世界に関わったことがあったなんで……。
僕はふと気がついて言った。
「そのイレギュラの人はどうなったんですか? それに、一緒にいた工作員の人は?」
でも腹話術師さんは、ただ首を振っただけだった。
「分からない。調べた限りではその後の記録は残っていない。ただ、イレギュラのほうはユダヤの血が入っていたらしい。強制収容所に送られたか、運よく逃れたとしても、戦争の混乱で命を落としたか……。さて、ところで野島くん、君は子供の頃、事故に遭ったね?」
「は、はあ……」
いきなり話が飛んで、僕はわけも分からないままうなずいた。
「1919年ののイレギュラも、少年のころに風邪をこじらして肺炎を患い、危うく死にかけたらしい。イレギュラにはそういう事例が多い。私も生まれたとき、一度心臓が止まったことがあったそうだ」

僕は三歳のころ、トラックに撥ねられたことがある。コンクリートの側壁に叩きつけられた僕は、一週間、意識を失ったままだったそうだ。
「でも、君を撥ねたトラックは、結局見つからなかったらしいね。現代の鑑識の技術は非常に進歩していてね、塗料片のひとつで犯人逮捕に結びつくことも珍しくはない。おまけに被害者はほんの子供だ。警察だってそれなりに力を入れて捜査したことだろうけど、しかし結局見つからなかったというのは、どういうことだろうね」
腹話術師さんが何を言いたいのかは分からなかった。でも、お腹の底から気味の悪いものがじわじわと這い上がって来る、嫌な感じがした。
「何が言いたいんです?」

でも腹話術師さんは僕の言葉に直接答えることはなく、また別の話を始めた。
「1919年の事例については、ソサエティでも徹底的に研究が行われたらしい。なぜこんなことになったのかということはもちろん、今後、そういう事例が発生した場合、どう対処すればいいのか、そして、この事例はすべてが負の方向を向いたが、それを逆転させて正の方向に向けるためにはどうすればいいのかということまで。ご丁寧なことに、それを再現する実験まで行われた」
「再現……?」
「ソサエティは、1919年の出来事のきっかけとなったのは、運命読みの読み違えだけではないと考えた。強い力を持つ可能性のあるイレギュラと工作員。この二人の出会いが最大の転換点だと。
そして、そういった二人の出会いによってこの世界はどう変わるのかを再現するための実験を行った。かつてのイレギュラと同じようなパーソナリティを持った子供を見つけて、死の直前まで追いやり、イレギュラとしての覚醒を促す。そのために事故を偽装したこともあるらしい。もちろん、イレギュラにならず、その事故で助からなかった子供たちも、大勢いたことだろう」

再び、お腹の底で気味の悪い感覚が蘇った。一体、腹話術師さんは何を言おうとしているのだろう?
「もちろん、この再現は上手くいかなかった。強い力を持ったイレギュラ、そのイレギュラと精神的な絆を育める工作員、そういう組み合わせはなかなか生まれるものじゃない。それでもソサエティはあきらめなかった。そしてようやく、見つけ出した。運命読みの力を開花させるほどに強い力を持ったイレギュラになる可能性のある子供を。そして彼を死の危険にさらし、イレギュラとして開花させて、かつての工作員とそっくりに育て上げた工作員と、出会わせた」

腹話術師さんは誰の名前を上げたわけでもないけれど、ここまで言われたら僕にでも分かった。
僕とノアちゃんが出会ったのは偶然じゃなかった。それだけじゃない。僕が子供の頃に事故に遭ったことも。
全部はソサエティの計画だった。
「ソサエティは古い組織だ。昔、精肉業者が郵便業を兼ねてたという話は知ってるかい? 冷蔵技術がなく、腐敗しやすい精肉を運ぶために、彼らは極めて短い時間に荷を運ぶことを求められた。そのネットワークを利用して手紙や荷物を運んだのが郵便の始まりだと言われている。そして、ソサエティは、その時代にはすでに運命に介入し続けていた。想像できるかい? ずっと昔からだ。それこそ肉屋が手紙を運んでいた頃からだ。そのときには、もしかしたらちがったのかも知れない。あらゆる集団や組織がそうであるように、誕生した時点では、世界を憂い、社会をよりよい方向に導こうとしている。それはナチスですらそうだった。だが時間が経ち、力を得るにつれて、すべては変わる。善意は独善に、志は欲望に、理想は腐敗に代わる。運命という大きな、人間が本来、触れるべきでないものに対してすら」

そう言うと腹話術師さんは、じっと僕の顔を見つめた。
「考えてほしい。どうすることが、より、世界のためになるのか。私が持っているカードは、すべて見せた。ソサエティは自分たちの実験のために子供の命を危険に晒す組織だ。もちろん我々も、ほめられたことばかりではない。だが、我々はソサエティのように、運命に対して傲慢ではない」
そう言うと腹話術師さんは背中を向けた。
「私の話を聞いてくれてありがとう。お礼の代わりに、もうひとつ、教えてあげよう。今から三十分後、ある事件が起きる。男が刃物を持って女の子の髪を切る。その被害者になるのは、君の、幼馴染みの少女だ」

                           つづく

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