ノアちゃんの呼吸が規則正しくなったのを確認して、僕は音を立てないように、静かに客間の外に出た。
ノアちゃんは倒れたすぐあとに意識を取り戻したけれど、でもやっぱり顔色がすごく悪くて、僕が布団を敷くと、逆らうこともなくおとなしく横になった。
どこか身体の具合でも悪いように見えたけど、熱もなく、咳をしたり、身体が痛むような様子もない。でも、それでいて、ノアちゃんは眠りに着くまで僕の手をぎゅっと握って離さなかった。
(どうしたんだろう……)
言うまでもなく、そんなノアちゃんの様子を見るのは初めてのことだった。
やっぱり、僕が想像している以上に、あかねさんのことがショックだったのかもしれない。ノアちゃんとあかねさんとの関係は詳しく聞いたことがないけれど、でもずっとソサエティの教育施設である各地のセンターを転々として育ち、ほとんど両親と顔を合わせたこともないノアちゃんにとっては、いつもあけっぴろげで、明るくて、そんなあかねさんは本当に姉のような存在だったの知れない。
よし。
思いついて、僕はキッチンに向かった。
こういうときこそ、ノアちゃんの好きなお菓子を作ろう。
僕も分からないことばっかりで混乱しているけれど、それでもノアちゃんが少しでも元気になって欲しい。僕にはこんなことしかできないけれど、でもそれでノアちゃんが喜んでくれるなら。
材料がそんなにはないし、ノアちゃんが目が覚めたときにすぐに食べてもらいたいから、簡単に出来るものを……。
そうだ。クレーム・ブリュレはどうかな。
前に一緒に見たDVDに出て来たお菓子。主人公が焦がしたカラメルをこつこつ叩いて割るところで、じいっとそれを見てたノアちゃんは「最初に全部割っちゃって細かくしたほうがおいしいのに」とか言ってた。そのときは、表面を焼くのに必要な、バーナーのガスがなかったから作れなかったけれど、今なら大丈夫だ。
普通に作ってもいいけれど、ちょっと工夫して、クリームにピスタチオとか入れてみたらどうかな……。
そんなことを考えてたら注意が散漫になっていたらしい。
「うわっと!」
危うく、足元に伸びていた延長コードに引っかかって転びそうになった。
「あ、危な……」
テーブルの端に捕まって危うく転倒を免れた僕は、ふう、と息をついた。こんなときにすっ転んで怪我でもしたら、ノアちゃんを元気づけるどころじゃなくなる……。
「……ん?」
なにか、変な感じがした。なにがどうとは言えないのだけれど、すごく妙な感じ。きょろきょろ左右を見回してみても、いつものキッチンの景色……、に思われたのだけど、でも嫌な感じは消えない。さっきよりますます、強くなっているような気もする。
(気が立ってるのかな……)
僕は首を強く左右に振った。一昨日から大変なことばかりで、気の休まる暇もない。ノアちゃんですらあんな様子なのだから、僕がおかしくなっていても仕方がない。
僕は一度、大きく深呼吸をしてから冷蔵庫を開けて、卵と牛乳、生クリームを取り出した。卵黄だけを分けて泡だて器で砂糖と混ぜ始めると、ようやくちょっと、気持ちが落ち着いてきた。
父さんがパティシエだからとか、子供の頃から仕込まれてるからとかじゃなくて、やっぱり僕は、こうやってお菓子を作るのが好きなんだ。
でも、それだけじゃないっていうことも、最近分かった。これ食べたら、ノアちゃんどんな顔するかな? 喜んでくれるかな? ちょっといつもと味を変えてみたんだけど、気がつくかな? そんなことを考えてお菓子を作ることは、すごく幸せなことだって気がついた。
そう言えば、ノアちゃんが最初に食べた僕のお菓子は、マカロンだったな。
材料もレシピもシンプルだけど、美味しく作るのは結構難しい。外側の生地もサンドするクリームも色んな種類があって、パティシエの実力を図るテストにも課題として出されるお菓子だって、父さんに聞いたことがある。
最近作ってなかったけれど、明日にでも作って食べてもらおうかな。
本気で父さんのような菓子職人になろうと思い始めてから、自分なりに色々勉強しているから、今は最初に出会ったときよりもり、ちょっとだけだけど上手くなった気がするし……。
ようやく仕上がったクレーム・ブリュレのクリームをオーブンに入れ、僕はほっと一息ついた。クリームが固まったら、少し冷まして冷蔵庫に入れて、食べる直前に表面をバーナーで焼けば完成だ。
とりあえず手が空いた僕はキッチンの椅子に座って、それからテーブルの上に置きっぱなしになっていたものに気がついた。
あ。
さっき、ポストに入ってた荷物。
改めて見ると、宛名は僕になっている。もしかしてノアちゃんに届いたものかとも思ったけれど、でもそういえば、ノアちゃんに荷物が届くときは大体ソサエティに関係したものだけだから、こうやって普通に玄関のポストに投函されるなんてことはあり得ない。
じゃあ、やっぱり僕に?
ちょっと迷ってから箱を開ける。中には、クッション材に包まれた薄いケースが入っている。
「なんだ、これ?」
わさわさとクッション材を開くと、華やかなパッケージが現れた。
きわどい水着姿の女の人が胸を強調して、満面の笑顔で笑っている。
「ああ、これって……」
苦笑しながら脇に置いてあったノートパソコンに入れてみる。きゅきゅっ、と音がして、動画ソフトが開いた。
てろてろてろりん、という能天気な音楽をバックに、いきなりぽーん、とビーチボールが現れる。
「やっぱり……」
画面の中で、ビキニを着てボールと戯れているのは、あかねさんだった。
(そういえば、新作DVD出来たから送るとか、言ってたな……)
そうしてしばらく画面を見てるうちに、なんだか目の辺りが熱くなってきた。
「ね、あたしのこと知らない?」
「変わったことがあったら、早く言いなさいよねぇ!」
「大丈夫だから、ね?」
甘ったるい声が耳の中で蘇る。画面の中で大きなおっぱいを揺らせて飛び跳ねる、作り笑い全開のあかねさん。
僕はたまらなくなって、画面を閉じた。それから、目を閉じて祈った。
良くなりますように。早く、目を覚ましますように。
そうして祈るうち、思い出した。
なにかしてあげたいんだけど、どうすることもできないんだ。僕になにか、してあげられること、あるかな? そう尋ねた僕に、お祈りすればいいと思います、と教えてくれた女の子のことを。
僕は今、初めて、その言葉の本当の意味が分かったような気がした。
誰かのために祈ること。祈ることしかできないこと。それは祈られる相手のためだけじゃなくて、祈る人のためでもあるんだ。みんな、誰かのためを思っても、何もできない。もしかしたら、祈ることは、その無力に押しつぶされないようにするための、唯一の手段なのかも知れない。
どうか、元気になりますように。
あかねさんも、ノアちゃんも。
僕は祈った。
クリームの甘い香りの中で、それが僕に出来るたったひとつのことだった。
でもその日、ノアちゃんが客間から出てくることも、あかねさんが目覚めたという知らせが届くことも、なかった。
つづく