「車というのは便利でね。他人に聞かれたくない話をするのに、これほどうってつけなものはない」
男の人は落ち着いた声で言った。
車の窓の外には、灰色のフェンスと、ときどきそのすき間からのぞく街の景色が飛んでいく。
僕たちを乗せた車は、しばらく街の中を走った後、高速道路に入った。
「別に遠くまで行こうというわけじゃないから、安心していい。落ち着いて話をするには街中を走るよりこっちのほうが都合がいいからね」
男の人はリラックスした表情を浮かべている。歳は五十歳ぐらいだろうか、中年と言っていい年齢だと思うけれど、でも、長い手足とスーツの上からでも分かる引きしまった身体、それに精悍な顔立ちのせいでとても若い感じがする。
「彼女のことも心配いらない。もちろん、責任を持って家まで送り届ける」
僕が助手席の綾野さんを見ていたのが分かったのか、男の人はそんなふうに言った。
その綾野さんはただ座ったまま、ぼんやりと前を見ている。その表情にはほとんど変化がない。綾野さんの隣に座っている角ばった帽子をかぶった運転手の人は無言のまま、車を運転している。帽子の陰になってどんな顔をしているのか分からなくて、それもなにか気味が悪かった。
「あの……、一体なんなんですか? 綾野さんになにをしたんですか? あなたは、一体誰なんですか」
何が何だか分からないまま、僕は尋ねた。自分でも。声が尖っていくのが分かった。
「落ち着いて、と言っても無理だろうけれど、まず、聞いてほしい。私たちは、君やこのお嬢さんに危害を加えるつもりはない」
でも、男の人はあくまでも静かに、微笑みすら浮かべて言った。
「君の後輩は一種の催眠下にある。眠っているのと同じだ」
「催眠……?」
「そう。恐らく、覚醒したあとはなにも覚えていないだろう。もちろん後遺症の心配は要らない。ただ眠って起きた、それだけのことだ。ちなみに、君についていたソサエティの警護。彼らも今は、同じように夢の中だろう」
身を乗り出して前を伺うと、僕たちの話が耳に入っているのかどうか、綾野さんは人形のようにただ前を見て座っているだけだ。
「私は、腹話術師、と呼ばれている」
「腹話術師さん……?」
「そう。知っているだろう? 子供の頃、警官がやって来て交通マナーの説明かなにか、されたことはないか? こういうふうに」
「シンゴウヲ、マモルコトハ、タイセツダネ」
いかにも腹話術の人形がしゃべりそうな、少しこもった声で、運転手の人が言った。言ってから、不思議そうな顔で首を捻って、片手で帽子をかぶりなおし、また以前のような無表情に戻る。
「コウツウジコニハ、キヲツケナイト、イケナイネ」
再び人形のような声。特に不快ではない声だったけれど、その声を聞き終えたとたん、ぞっと寒気と吐き気のようなものがこみ上げた。
なぜならその声は、僕の口から出ていたからだ。
「まあ、こういうことだ」
声を出そうというつもりはもちろん、出したという実感もない。ただ、お腹が鳴るような感じで、勝手に喉が震えた。
「……あなた、一体なんなんですか?」
僕の問いかけに、男の人は、ふっと、笑い声でもため息でもない奇妙な吐息をもらした。
「だから、腹話術師だよ。まあ、こう言ったほうが早いか。君と同じ、イレギュラだ」
「イレギュラ……?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「あなたが……?」
「そう。聞いたことはないかね? イレギュラには他人と違う力を持っている者が多い。私の場合、それが腹話術だ。ちょうど、君が未来が見えるのと同じように」
「そんなことまで、知って……。あなた、ソサエティの人なんですか?」
僕の問いかけに、腹話術師さんは今度ははっきりと、笑い声を洩らした。
「いや、ちがう。言うなれば、その反対側だ」
「反対側?」
「私はソサエティの、対立する側の人間だ」
「対立する側って……」
頭の中に、いつかあかねさんから聞いた言葉がよみがえった。
ソサエティに対立する組織。ノアちゃんの幼馴染みだった、運命読み候補の女の子を攫おうとした組織。
「あ……」
頭の中でいろいろなことが繋がって形になる。
「もしかして……」
去年の冬に僕らが巻き込まれた事件。運命読みの女の子を攫おうとした男たち。そして一昨日、広場で僕らを襲ったバイクの集団。
「あれは、もしかして、あなたたちが……」
「まあ、そうだ」
全身から血の気が引いた。そしてその反動のように、かっと頭が熱くなる。地面に倒れている人たちの姿、そして僕の手の中に倒れ掛かって来たあかねさんの姿が蘇る。
気が付いたら、僕は腕を伸ばしていた。
「なんであんなこと、したんですか!」
気が付いたら叫んでいた。どういうわけか分からないけれど、目が熱くなって泣きそうになった。
「あなたのせいで、みんなが傷ついて、血を流して、死んだ人だって……」
僕の声は涙声で、でもそれが恥ずかしくないぐらいの怒りで全身が一杯になっていた。
「落ち着きたまえ」
でも、腹話術師さんは冷静な声で言うと、ぴっと指を一本、僕の目の前に立てて見せた。それを見たとたん、さっき僕の喉が勝手に声を出したのと同じように、腕が下がり、身体がシートに引っ張り戻される。どういうわけか、身体にまったく力が入らない。
「腹話術師は声を出すだけじゃない。人形を使うのも仕事のうちだ」
そう言って、僕が掴んでいたスーツの襟を軽く整える。
「一昨日の出来事は、個人的には実に遺憾だ。彼らが一般の市民を巻き込んで、ああいう行動に出るとは思っていなかった。よほどソサエティを恨んでいたんだろうな」
「ソサエティを?」
僕は尋ねて、そのときにようやく、首から下は力が抜けたままだけど、声も出るし顔も動かせることに気がついた。
「ああ。ところでさっき君は、あなたたち、と言ったが、それはあまり正確ではない。我々はソサエティのように、大きな組織ではない。小さなグループ単位で、反ソサエティ活動を行っている。だから我々には名前がない。便宜上、ソサエティは我々を〈ユニティ〉と呼んでいるらしいが。一昨日のことは、私の率いるグループが行ったものではないんだ」
腹話術師さんはよどみない口調で言った。
ソサエティに対立する組織がいると聞いたときには、きっとそれは悪の組織で、見るからに悪者顔の、例えば戦闘服を着た人がリーダーなのかも知れないなと考えたものだけど、でも目の前の男の人は、悪の首領というよりも、知的で温厚な大学教授か、あるいは大きな会社の重役のように見えた。
「もっと言えば、運命読み候補を確保しようとした。あの作戦もそうだ。あの場合、私たちはあくまでも少し力を貸したに過ぎない。金で集めた連中を動かしたいと言われてね、私が関わったのは、実行部隊の記憶や行動のコントロールについてだけだ」
確か、あのとき、僕たちを襲った人間は誰に命令されたのかずっと自白することはなかったと聞いた。
じゃあ、それも腹話術師さんの力……?
「一昨日の場合、実行したグループの目的は桜統括官をはじめとする、ソサエティ極東支部幹部の殺害だった。彼らは極東支部に深い恨みを抱いていた。私としては、幹部を何人殺しても新しいのと入れ替わるだけだからそれほど、効率的とは思えなかったのだが」
「どうしてそんなことまで、僕に……?」
釣り込まれるように話に聞き入っていた僕は、思わず尋ねた。
「それは、私の目的が君だからだよ、野島浩平くん」
「僕?」
驚いて言った僕に、腹話術師さんは軽く頷いた。
つづく