(えっと、ここでいいんだよな……?)
僕は不安な思いで左右を見回した。
周りの席では、大学生らしいカップルや、きれいな女の人の二人連れ、たぶん高価なのだろうスーツをぴしっと着こなした男の人といった、ちょっとおしゃれな格好をした人たちがおしゃべりしたりお茶を飲んだり読書したり、思い思いの時間を過ごしている。
僕の住む街から電車でしばらく行ったところにある、都会の一角だった。
周囲には、土曜日だと言うのにスーツ姿の人たちが忙しげに出入りする高いビルがびっしりと立ち並んでいる。僕が座っているのは、そのビルに囲まれて広場のようになった場所に作られた、オープンカフェの片隅だ。
「浩平くんはただ、座っててくれたらいいからさあ」
この間のバイトのことなんですが、と僕が連絡すると、あかねさんは相変わらずの甘い声で、日時と場所と、バイトの内容を指示してきた。
「座っててくれたらって……、それだけ?」
「そ。三時間ぐらいお茶飲みながら座ってる。それだけ。ただ、周りでなにか起きても、浩平くんは、なにもしちゃだめよお? 君のおかげで、色々運命が変わっちゃうだろうけどね。足の悪いおばあちゃんが転んだり、誰かが財布とか落としたりしても、声かけちゃだめ。本当に、ただ、ひたすら、じっと、座ってて? あたしたちが、イレギュラ、つまり君の影響で、どういうふうに周りの運命律が変化してるのかを観測してるから。なにか困ったことあったら、メールしてくれたらいいからね?」
(そう言われてもなあ……)
慣れない雰囲気に縮こまりつつ、僕は目の前に置かれたカフェオレをすする。メニューには目をこすってもう一度確認したくなるような値段が書かれていたけれど、味も量もごくごく普通で、値段と釣り合うのは温度だけだった。
(あかねさんもノアちゃんも、どっかから見てるのかな……)
僕の日常を観察するというのが任務だから当然なのだけど、ノアちゃんも僕の「バイト」に参加することになっていて、ここに来る途中までは一緒だった。でも、この広場に入るときに、「ノアは一緒には行けませんので」と一言だけ残して、どこかに行ってしまったのだ。
周囲のビルのガラスは鏡のように午後の明るい太陽の光を反射して真っ白く光っている。ビルの足元にはたくさんの木々が植えられたりしていて、隠れて僕を観察する場所には、事欠かなそうだ。
(何もしないって、案外、難しい……)
あんまりきょろきょろしないほうがいいのかもとは思いつつも、でもすることもなくて、僕は落ち着きなく辺りを見回す。携帯で電話しながら歩くスーツ姿の人は仕事中なんだろうか。広場の向こうを、自転車便の人が横切る。土曜日なのに、大変だなあ……。なにか気に入らないことでもあったのだろうか、人形を抱いて泣いている女の子の手を、困った顔のお母さんが引っ張っていく。僕の近くのテーブルに座ってたカップルが席を立った。なんか、険悪な顔してる。ケンカでもしたのかな。
本当に、色んな人がいるなあ……。
僕、この人たちの運命になんか影響してるのかな……。もしかして、僕がいることで、誰かが不幸せになったりしてたら、嫌だなあ……。
なんだか妙に申し訳のない気持ちになったとき、広場の端っこに立つ女の人の姿が目に入った。
ウェーブの掛かった長くて茶色い髪の、ピースマークの入ったTシャツの上に、薄い緑色のシャツを羽織った、すらりとした女の人。昆虫の複眼みたいなでっかいサングラスを掛けていたけど、僕はそれが誰だか、すぐに分かった。
あかねさんだ。
グラビアアイドルを副業にしているだけあって、さすがのスタイルの良さ。周りの人と比べると、際立って手足が細くて長いし、Tシャツのデザインが歪んでしまうぐらいの胸の大きさなのに、ちっとも太って見えない。
あかねさんは、僕が見ているのに気づいてか、唇の端っこをちょっとだけ上げて、笑って見せた。
僕もちょっとだけ頭をさげつつ、思った。
考えてみれば、不思議だよなあ。
一年前まではあかねさんは雑誌やテレビの中の人で、僕みたいに普通の子とは、この先どれほど長生きしたって絶対に接点なんかないだろうと思ってた。でも、ノアちゃんと出会って、その上司であるあかねさんとも知り合って、今ではこうやって、お互いに挨拶なんかしてる。そんなの、予想どころか、妄想の中の出来事ですらなかった。
これから先もこんなふうに、想像もつかなかったことが僕の人生に起きたりするのかな……?
僕がそんなことを考えていたときだった。
頭上から、ヴヴヴ、という妙な音が聞こえた。机の上に置きっぱなしの携帯が震えるような音。それが断続的に、頭の上で鳴っていた。
見上げると、群れからはぐれた鳥のように、白くて小さなグライダーが一機、ビルの間をぐるぐると螺旋を描きながら滑空していた。翼だけが妙に大きくて、透明な膜のようなものが張られている。あの妙な音は、あそこが振動して鳴っているんだ、とぼんやりと思った。同時に、なんであんなのが飛んでるんだろ? という疑問が
――太いエンジン音。飛び出す黒い影。周りの数人が立ち上がる。悲鳴。「伏せろ!」乾いた音。スーツを着た人が倒れる。背中を引っ張られる――
「え?」
僕は、激しい頭痛に耐えながら周囲を見渡した。
自分の見たものの、意味が分からなかった。それほどに非現実的な景色だった。でも、それは間違いなく、起きることで……。
ぐおん、というエンジン音がビルの谷間に響いた。
ビルの間、植え込みの陰、地下へと続く出入り口。そこから、真っ黒なバイクが飛び出して来る。乗っているのも、黒いヘルメットに黒いライダースーツの黒づくめ。それが何台も、色々なところから飛び出して、一気に広場へと殺到した。
僕の近くのテーブルに座っていた人が、がたんと椅子を倒しながら立ち上がる。突然のことに、呆然としている人をバイクが撥ね飛ばし、誰かが悲鳴を上げた。
乾いた短い音がして、僕の目の前に置いてあったカフェオレのカップが砕け散った。
「伏せろ!」
突然、襟を掴まれて床に引き倒される。頬が地面にこすれて痛みを覚えながら見上げると、さっきまで、隣のテーブルで文庫本を読んでいたスーツ姿の男の人が傍らにしゃがみこんでいた。すばやくテーブルを楯のように前に倒し、懐に手を入れる。そこから取りだされたものを見て、ぎょっとした。
黒く光る、大型の拳銃。
「一体、何……」
呆然と呟いた僕の前に倒されたテーブルの向こうで、何かが砕けるような音が聞こえた。隣の男は軽く舌打ちをして、しかしためらう様子もなく身体を翻してテーブルの陰から飛び出した。
再びエンジン音と、そして激しい銃声。
僕は半分夢の中にいるように感じながら、それでも周囲を見回して愕然とした。
穏やかな光景が一変していた。
あちらこちらでテーブルや椅子が倒れている。倒れているのはそれだけじゃない。お盆を持ったままのウエイター、きれいな服を着てお喋りしていた女の人。コンクリートの地面の上に溜まっている黒いものは、コーヒーなのだろうか、それとも……。
まったく現実感がなかった。まるで魂が抜け出たみたいに、物がぼんやりして見える。どこかでまた、ガラスの砕ける音が聞こえた。
突然、何かが僕の隠れているテーブルの陰に転がり込んできた。
「大丈夫!? 怪我は!?」
僕の両肩を掴んで、大きな目でこちらを覗きこむ。
「大丈夫、です……、これって……」
そう言った言葉は、まるで自分の口から出たものじゃないように、僕の耳には聞こえた。
あかねさんは僕の目をしっかり見たまま、うん、とひとつうなずいた。その手には、小型の、華奢な拳銃が握られている。
まるで、映画かドラマのロケみたいだな。
僕はぼんやりと考えた。そうだ、前に、あかねさんが出てたドラマ、見たことがあったな。確か刑事もので、テロリスト役だったあかねさんはわざとなのか天然なのか知らないけど、すっごくセリフが下手で……。
ぱちん、と頬が鳴った。
叩かれたんだ。そう分かったのは、しばらくしてからのことだった。
「浩平くん、しっかりして!」
あかねさんの声は、いつもと同じように甘かったけれど、でも少し早口で、そしてその大きな目は、今まで見たことのないような切迫感に満ちていた。
「大丈夫だから、ね?」
でも、あかねさんは笑顔で言った。CMやグラビアで見るような、なんだかわざとらしいけど、それも魅力になるようなチャーミングな笑顔。
「落ち着いて、こっちに」
と、あかねさんが僕を抱き締めるように肩を抱いたとき、ほんのわずか、その顔がしかめられた。誰かに呼ばれたように後ろを振り向いて、それから、ちょっとだけ困ったような顔になった。
「あらあ」
そう言って、ちょっと中腰になって大きな胸に押し上げられたピースマークを見降ろす。
そこに、じわり、と朱が浮かんだ。
「もお、困っちゃうなあ」
そう呟いて、またあかねさんはほんの少しの笑顔を浮かべると、そのまま僕のほうに倒れ込んだ。
抱きとめた僕の手に、あかねさんの細い肩の感触が伝わる。
「あかねさん?」
呼びかけた僕にあかねさんは答えなかった。その背中は、真っ赤な血に染まっていた。
再び銃声が聞こえた。
つづく