(バイトかあ……、確かに、今月はちょっと厳しいからなあ……)
面倒だからこのまま帰るという白塗りの先輩をなだめて化粧を落とさせる、という、恐らくそんなことやってる部なんて日本でも唯一つだろうという部活を終えた帰り道、僕はどうやって電話の返事をしたものかと考えていた。
両親から掛かって来た電話については、あまり考える必要はなかった。
母さんの言うとおり、僕は両親がいない生活にも慣れているし、それに急に外国で暮らせなんて言われたら、そっちのほうが嫌だ。日本でもおっかなびっくりな僕が、外国なんかで暮らせるとは思えない。母さんの言ってた製菓学校の件はちょっと興味あるけれど、でも日本の学校でも十分だろう。
そっちはそれでいいとして、問題はあかねさんの電話のほうだなあ……。
僕はあんまり服とか買わないし、マンガやゲームにお金を使うほうでもないけれど、今月、実はちょっと高価な製菓用の道具を買ってしまってお金が足りなくなっているのだ。
切り詰めればなんとかならなくもないんだけど、でも、やっぱりちょっと厳しい。一応、将来は僕も父さんのようにパティシエになろうかなあなんて考えていて、それで毎日、なにかひとつはお菓子を作るようにしているのだけれど、その材料費も、なかなか馬鹿にならない。
限られた材料でもワンパターンにならないように、生地をふわふわにしたり堅めにしたり、アーモンドとかチョコとか卵黄多めとかクリームを工夫したり、焼き型を変えてみたりして、材料費を節約はしているのだけど、ノアちゃんも「しばらくフルーツの入ったの、食べてないです」ってちょっと不機嫌になりつつあるし……。
でもフルーツ、高いんだもん。
やっぱり、バイトしたほうがいいのかなあ……。それにしてもソサエティのバイトって、どんなことやるんだろう? あかねさんは運命律がどうのとか言ってたけど、もしかして頭に電極刺されて実験用のモルモットみたいにされたりして……。
僕がそんな不安に襲われたときだった。
「まったく、鈍いですねえ」
「うわ、びっくりした!」
首の後ろでぼそっと言われて、僕は飛び上がりそうになった。っていうか、ホントに飛び上がった。
「ノアが忍者で師匠が殿様なら今頃下剋上です」
振り返ると、息が掛かりそうなぐらいの近さにノアちゃんの顔があって、
「うわわわ!」
僕はまたしても大声を上げて飛び退ろうとして……、足がもつれて尻もちをついてしまった。
「なにをやってるですか、師匠は」
ふう、とノアちゃんが肩をすくめて、手を差し出しす。
「……いつからいたの?」
みっともなく助け起こしてもらいながら、僕は尋ねた。
「しばらく前です。どれぐらいなら気がつくかと思って、少しずつ接近してたらいつまで経っても気がつかないので、くっつきそうになって困ってしまったです」
困ってしまったのは、ノアちゃんじゃなくて僕だと思うんだけど。
いきなり声を掛けられて振り返ったら美少女のどアップ。そこでひっくり返ってしまわないほど、僕は人間ができていない。
「さ、師匠。帰りましょう」
「う、うん」
なんとなく、ノアちゃんに引かれるままに歩きだす。
「どこか行ってたの?」
「ちょっとトレーニングです」
そう言われて初めて気がついたけれど、確かにノアちゃんは、ぴったりとした黒の上下を身につけている。
「気をつけないと、身体がなまってしまいます」
最近の僕が平和な毎日を送っているように、ノアちゃんもなんだか最近、やたらと暇そうにしている。
「でも最近、変な人が出るらしいから……」
ノアちゃんはきれいな髪をしてるから、夕方の外出は気をつけて、と言いかけて、僕は口を閉ざした。
もしハサミを持った痴漢とノアちゃんが出くわしたとしても、危険なのは痴漢の人のほうだろう。ノアちゃん、銃とか持ってるし。
「それに、きちんと身体を動かしたあとは、師匠のケーキが美味しいですから」
そう言うと、ノアちゃんは上目遣いになって、じっと僕を見上げる。
「う……」
そのすごく大きくて形のいい、青みがかった黒い瞳に見つめられて、思わず絶句してしまう。
たぶんその目は「今日のケーキはなんでしょう」の目だろうな。あるいは「今日こそフルーツの入ったお菓子ですか」か。
歩きながらもノアちゃんはじっと僕の目を見ている。ここ数日、この視線の圧力は日に日に高まりつつある。
(果物って、今だとなんだろう……。そろそろメロンとかマンゴーが出てるのは見たけど、そんなの高くて買えないしなあ……。前に缶詰つかったら「ノアはちょっと甘すぎると思います」って言われちゃったし、パンプキンパイ、とかでごまかされてくれないかな……)
「師匠?」
「はい!?」
いきなり言われて、必要以上の大声になってしまった。
「師匠とノアは仲良しさんですね」
「え? な、なにをいきなり……」
「お手手つないでお家へ帰るのは仲良しさんじゃないですか?」
そう言うとノアちゃんは、ひょいと左手を掲げて見せた。その細くて華奢な手に続いているのは……、僕の手。
まだ繋ぎっぱなしだったんだ。
「うわ! ご、ごめん!」
僕はあわてて、ノアちゃんの陶器のような、すべすべして冷たい手を離した。
「へんな師匠です。なんで謝るですか?」
ノアちゃんは不思議そうな顔で、でもちょっとだけ笑った。
その顔を見てるだけで、自分の顔が真っ赤になって、心臓がぱかぱか言い始めるのが分かった。
「ノ、ノアちゃん! 今日はなんのお菓子、作ろうか! ノアちゃんの食べたいの、作るよ!」
なんだか本当に焦ってしまって思わずそう口にしたとたん、ノアちゃんの顔がぱっと輝く。
「本当ですか! えっと、えっと、ノアは果物のたくさん載った、タルトが食べたいです! ラズベリーとかクランベリーとかブルーベリーとか……、それにイチゴとバナナも欠かせませんね! あ! そう言えばさっき、果物屋さんでメロンとマンゴーを売っていました! そうと決まれば、早く買いに行かねば! さ、ささ、師匠、行きましょう!」
ノアちゃんはくるりと踵を返すと、今度は僕の腕を取ってぐいぐい引っ張りながら、歩き始めた。
「ちょ、ちょっと待って!」
急に引っ張られたお陰でつんのめりながら、僕は思った。
思わず言ってしまったこととはいえ、これはもう、仕方ない。
バイトしよ。
つづく