「こーちゃん!」
「うわ、びっくりした!」
ホームルームが終わってカバンを手に立ち上がろうとしたとき、隣の席のちはるがいきなり大声で言った。
「日曜日の約束なんだけど!」
よほど頑張って声を出しているのか、ちはるの白い頬は真っ赤になって、首筋は少し、汗ばんでいる。
っていうか、隣なんだし、そんなに大きな声出さなくても。
「お、覚えてるよ、もちろん」
ちはるの大きな声に、クラスのみんなからなんだなんだなにごとだ、という視線を向けられておののきつつも、僕は言った。
「ユウくんには、私から、電話しておいたので!」
しかしそんな視線もまったく気にならないようにちはるは大声のまま言い切って、うん、とひとつうなずいた。
「じゃあ、生徒会の仕事、あるから!」
「……あ、あんまり遅くならないようにね。もし、時間が合うようだったら、一緒に帰ろうか?」
僕は勢いに押されながら言った。
最近、僕の街ではよく痴漢が出るとかで、先生からもしょっちゅう注意されているのだ。なんでも、その痴漢は夕方に現れて、大きなハサミを持っていて女の子の髪を切り刻むのだという。最近では「夕方の髪切り魔」という異名まで奉られて、ウチの学校ではまだ被害者はいないけれど、近所の中学校や高校では女子生徒の集団帰宅も始まっているところもあるのだとか。
「あ……、うん、ありがと……」
僕の言葉に、ちはるはいつもの小さな声で言いかけて、それからはっとしたように、
「あ、ありがと! でも大丈夫! それじゃあ!」
大声に切り替わって、肩を怒らせて教室から出て行った。
「春野ちゃん、どしたの?」
近寄って来た里見が首をかしげながら言った。後ろに立っている大竹も無言ながら、里見と同じ方向に首を傾けている。
「なに、あのテンションは?」
「なんていうか……」
どう答えていいものか分からずに、僕は曖昧に言葉を濁す。
「彼女なりに、頑張ってる、みたい」
でも、頑張ってるのは分かるけど、あのテンションを相手にするのは、人助けモードのときよりも疲れるな……。
ウチの学校では、毎年六月には生徒会長を選ぶ選挙があるんだけど、今年、ちはるはそれに立候補しようとしている。僕の知る限りでは成績も人望も、それにやる気も申し分ないと思うのだけど、内気なちはるは、人前でしゃべるのは苦手なのだ。でも選挙に出る以上は抱負や公約なんかを全校生徒の前で演説しなければいけないわけで、だからここしばらく、そのため、僕と岩田くんは日曜日になると河原に呼び出されて、ちはるの演説練習に付き合わされているのだ。
「ま、いーや。行こうぜ?」
里見に促され、僕らは部室に向かった。
「にしても、だ」
校舎の階段を上がりながら、里見が眉をひそめながら、恐ろしげに口を開く。
「今日も、アレ、あるのかね? なんとかならんもんかね?」
「アレ、あるだろうねえ……」
「恐らく、なんとも、ならない」
大竹がフランケン似の顔に哀しみを浮かべて、首を振る。
僕らが所属している通称“文研”、正式名称『日本文化研究会』は、その名の通り日本の文化を研究するということはまったくなく、部室でだらだら駄菓子を食いながらマンガを読んだりだべったりする、ある意味、とても正しい高校生の在り方を具現化する平和な部だった。
そう。
だった、と過去形になるのだ。
「さて……」
部室の前に立って、若干声を低めた里見が、僕に顎をしゃくった。お前開けろ、ってことだろう。
「やだよ。昨日も僕だったんだから、今日は里見か大竹でしょ」
「俺だってやだよ。それに、一昨日は俺、開けたんだから」
「その前に、私が開けたときは、過去最大のインパクトだった」
僕ら三人はしばらくお互いの顔を見合わせて、同時にため息をついた。
「じゃあ、せーの、で……」
「よし……」
「せーの!」
ほとんど目をつぶりながら、でも怖いもの見たさなのか防衛本能なのか薄目を開けて、僕らはドアを引き開けた。
「遅いわ!」
同時にぴしりとした声が飛んでくる。そして目の前に現れたものを見たとき、
「きゃああああ!」
僕ら三人は悲鳴を上げた。
「さっさとお入り!」
にゅっと伸びた白い腕がへたり込んだ僕と大竹を捕まえて部室に引っ張り込む。廊下の反対側まで飛び退ってた里見も襟首を掴まれて、やはり部室に引きずり込まれる。
僕らの背後でぴしゃりと戸が閉まった。
「さあ、あなたがた! 部活を始めるわ!」
「……き、き、き、今日のは、一体、なんですか?」
僕は目の前の物体から半分目をそらしながら尋ねた。
見たくない、でも完全に目をそらすこともできない。気持ち悪いものほど凝視したり、嫌なにおいほどちゃんと嗅いでしまうのと似てる。
僕らの前に立っている人は、どういうわけか、ぞろりとした真っ赤な長襦袢を着て、長煙管を持っている。それはまだ、いい。襦袢の襟が大きく開いて胸の谷間が見えていて目のやり場に困るけど、それもまだ、いい。
問題は首から上だった。
どういうわけか、白粉を塗りたくって真っ白になった顔には、黒いL字の太い眉と、赤い模様が描かれている。はっきり言って、怖い。ものすごく怖い。
「これを知らないの? これは隈取りの中でも、一本隈と呼ばれるものよ! 歌舞伎は日本文化の中でも重要な位置を占めているのよ! 文研部員として恥ずかしいと、お思い!」
豊かな胸をそらして、文研部長の唐島さんは、言った。
春から新部長となった唐島さんは、ある日突然「これから我々は日本文化研究会の名に恥じない活動を行うわ!」と宣言した。春になるとハサミで女の子の髪を切るような、変な人が増えるって言うから、あらまあ、ここにもそういう人がまたひとり、などと僕たちは最初はまともに相手をしていなったのだけど、でも唐島さんは本気だったらしい。兼任する演劇部の部長の仕事は大丈夫かというぐらい、毎日毎日、部室に一番に来ては、日本文化について勉強をするようになった。
もちろん、勉強するだけなら構わないのだけど、なぜかというかやっぱりというか、唐島さんは次第に奇行方向にシフトし始め、やがて僕らは今日のように隈取り姿で待ち構えられたり、あるいは昨日のように、詩吟という名の、妙にむずむずする唸り声を延々聞かされたりする羽目になった(ちなみに、大竹の言う「過去最大のインパクト」だった日は、道頓堀太郎のように、口の端っこに線を描いて文楽人形になりきった唐島さんが、部室の中で舞っていた)。
「さあ、あなたたちも、隈取ってあげるわ! まずは野島から! さあ、お脱ぎ!」
「ちょ、ちょっとそれはダメです! っていうか、脱ぐ必要なくないですか!?」
「大ありよ! 理由その一。着たまま化粧すると制服が汚れる。理由その二。私も脱いでいる。理由その三。野島の裸も見たい。さあ、そういうわけで、さっさとお脱ぎ! それとも里見か大竹からにする!?」
「いやいや! 俺らよりも野島のほうが、肌きれいそうだから!」
「そうそう! 野島が適任!」
「ちょ、ちょっと、裏切らないで!」
「もう誰でもいいわ! 待ちなさい!」
白粉刷毛を片手におそろしい隈取りの唐島さんに追いかけられてぎゃあぎゃあ叫びながら逃げ回っていると。
部室の戸がからからと開いた。
「……!」
戸を開けたのは、ほっそりとした女の子だった。ちょっと猫っぽい顔立ちに、ショートカットの茶色い髪が良く似合っている。
当然のことではあるけれど、半脱ぎ(というか、半脱がされ)男子三人が隈取り長襦袢に追い回されるという阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる部室の様子に大きく目を見開く。
みるみる、女の子の頬が好調する。そして、どういうわけか目を潤ませて、
「ワオ!」
と叫んだ。
そしてはっと我に返ったように、ちょっと恥じらいながら、
「……みなさん、ごきげんよう」
文研の新入部員、綾野さんは、ぺこりと頭を下げた。
つづく