11月某日 謎の鍋料理

鍋料理の季節である。土鍋から立ち上る湯気、いつも熱々、みんなで囲めば心も体も温まる、それが鍋料理の醍醐味ですね、というような書きようからすでに察した方もいらっしゃるかもしれないが、実は苦手である。鍋もの、かなり、苦手。

 ひとつの鍋にみんなが箸を突っ込むなんて不潔と思ってるわけではない。鍋奉行的権力構造が嫌いなわけでもない。では何が苦手かといえば、「すべてが混沌に向って行くさま」が、苦手なのである。

 なに鍋でもいいのだが、最初は、まあ、清浄なダシなり具材なり、それらはある程度、整った状態である。火をつけるとそれがくつくつと、温まっていく。具材が投入され、煮え頃になったものを食べて行く。そこまではいい。だが、次第に具は鍋の中で停滞する。すっかり食べ頃を過ぎたものが縮み、粉砕され、あるいは行方不明になる。そんな状態なのに、さらに別の具材が投入される。灰汁も出てくる。取りきれなかった灰汁が鍋底に沈殿する。一方、タレなりポン酢なりはどんどんうすまる。鍋のほうには「しめ」と称する麺類が入る。小麦が溶け出し、出汁は濁り、とろみがつく。最後は米と卵が入り、雑炊である。なんという混沌の極みであろうか。

 そんな鍋の究極系ともいえるのが、梅田にある、とある料理屋で出てくる鍋である。ここはハコが大きく、二十人、三十人でも入れる座敷がありお値段も安い、ということで大人数の集いなどに非常に重宝なのだが、コースで提供される鍋がなかなかの問題作である。具材は、白菜、きのこ、豆腐などごく一般的な野菜と、そして豚肉、鶏、といったごく普通のものなのだが、問題はこの肉類が、いつもカチカチに凍っていることである。どのタイミングで入れたらいいのか分からない。そしてしっかり火を通そうとすれば、鍋が灰汁だらけになる。店員からは、手順の説明など一切ない。だから、自分なりの方法で作るしかない。しかし、どうやっても灰汁が出る。当然の如く、この鍋の最後は、誕生直後の地球のような混沌のスープである。しかし、何よりも恐ろしいのが、味はそれほど悪くない、ということである。なんなのだろうか。


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