11月某日 カットされる

昔、朝の連ドラは月曜日から土曜日まで放送していたものだが、いつの頃からか、それが金曜日までになった。土曜日は総集編である。この総集編が、とても楽しみでほぼ毎日見ているから、その週、どんなことが起きたのか、ということはもう知っている。では何が好きなのかといえば「カットされた部分」を確かめることである。

ドラマは一日十五分が五日分、毎週七十五分放送される。それに対して総集編は十五分。単純計算で六十分がカットされることになる。さらに言えば、十五分で今週のストーリーがすべて分かる、というふうに編集しなければならない。では、カットされたところは不要なのかといえば、それは違う。むしろ、カットされた部分にこそ、大事なことが宿っているように思う。

たとえば、最近こんなシーンがあった。主人公が、劇団の後輩と共に東京に出てくる。下宿での初めての夜、横になったけれど興奮で眠れず、後輩に声をかけて起こす。そして「せっせっせ、しょうか」と言う。すごく短いシーンで、本筋にはまったく関係のないエピソードなのだが、このシーンが、とてもよかった。こういう、意味のない、時間が経てばきっと忘れてしまうようなことこそ、生きているということなのだと思った(ドラマの登場人物たちは覚えていたけれど)。そして当然のように、総集編でこのシーンはカットされていた。

それでいいと思う。たぶん、作った人、脚本の人も演出の人も、演じた人たちも、そう思っているはずだ。そうして、こうやって「カットされる部分」をどれだけ積み重ねるかによって、こういうシーンをいくつ作れたかによって、出来たものに「厚み」というようなものが生まれるはずだ。

ところで、小説を書いていると、それを読んだ編集者から、「余計だ」「いらない」「回りくどい」と言われがちだ(こんな直截的な表現ではないけれど)。だからカットしてくれ、と。今までは、「そういうものか」と、わりと素直に削っていた。ただ、最近では、そうやって削っていた部分にこそ、水沢秋生のエッセンスがあるのではないか、とも思う。というわけで、今後は堂々と、回りくどく書いていきたい次第である。


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