『ライオット・パーティーへようこそ』

【注意!】
自作解説にはネタバレが含まれていることがあります。未読の方はご注意ください!


『ライオット・パーティーへようこそ』は、2014年に出版された水沢秋生の第二長編です。

世の中には「できの悪い子ほど可愛い」という言葉がありますが、「自分自身の作品で一番好きなものを上げろ」といわれたら、この作品を選ぶかもしれない。『ライオット~』はそんな作品です。
なお、この場合の「できの悪い」というのは、「単に売れなかった」という意味です。作品の価値、あるいは込めた熱量とはまったく関係がありません。そう、もしかすると、これまでの作品で一番熱量を込めたからこそ、可愛いと思えるのかもしれない。

この作品を書いたとき、念頭にあったのは「自分の代表作となるものを」ということだった気がします。

どんな小説家でも、それぞれ代表作、あるいは代名詞といえるものがあり、残酷なことに、そこに辿り着く前に、小説家でなくなってしまうこともある。だったら、早く書かなければ。そういったあせりのようなものもありました。

特に、当時はデビューしたばかりで、しかも唯一頼れる人であるはずの担当編集者は産休に入って不在、相談する同業の友人もまだおらず、自分がどこに向かって歩いているのか、進んでるのか下がってるのか、この努力は正しいのかどうかも分からない状態でした。そういう状況で、とにかく、今持っているものを総動員して120%の力で書いたのがこの作品です。

この小説には、そこに至るまでの人生で経験したことが数多く詰め込まれています。のちに出版する『あの日、あの時、あの場所から』という作品について、「ご自身の体験ですか?」と訊ねられることがありますが、どちらかといえば『ライオット~』のほうが自伝的な要素が強いのかもしれない。

たとえば、二十代前半の一時期、住む場所がなくなったときのこと。そのときの、周りの全員が自分より幸せで、自分が蔑まれているような感覚。怒り、諦め、そういう暗い感情も詰め込まれています。作中、ネットカフェ難民という状態に陥ったある人物が、最後の晩餐としてハンバーガーを食べる場面は、自分で読んでいても胸が痛くなります。何かが少し違っていれていれば、自分もそうだったかもしれない。

もちろん(というのは変ですが)、この作品も売れず、当時は経験もなかったので「なんで売れないのだろう?」と思っていたのですが、今、冷静になってみると、なんとなく理由が分かります。そして、何遍も言いますが、売れないからといってその作品に価値がないわけではない。まあ、もうちょっと売れていたら、その後の小説家としての人生も楽だったのだろうな、とは思いますが。

この作品の中にはその後書いていくことになる小説にも関わる、いくつかの主題のようなものを見つけることができます。たとえば、「人生は自分の意志でコントロールできるものではない」「人生は些細なことで道を変える」と言ったようなことです。

また、この小説で、主要な役割を果たす人々は、「落伍者」と呼ばれるような立場です。今、この時代においては「そうなったのはお前の責任だ」といわれるようなことがあるでしょう。そういえば山手線で寝ていた時代、「若いくせに昼間からぶらぶらしやがって」と、知らん人に胸倉をつかまれたことを今思い出しました。あのおっさんはどうしているのだろうか。

幸いなことに、今は作品を発表し続けることができていて、こうやって「俺の話を聞いてくれ!」と言えば、多くはないにしろ、幾人かの人たちに「なんだなんだ、どうしたどうした」と、話を聞いてもらえる環境にいます。しかし、もしかしたら「俺の話を聞いてくれ!」が別の形で噴出していたかもしれないし、そうなっていたら、今頃は、もっと違う場所にいたことでしょう。すべては本当に、紙一重のことなのだと実感します。

そういうあれやこれやも含めて、デビュー作と同じぐらい「原点」といえる作品かもしれません。この作品はいつか続きを書きたい。

文庫にもなっておらず、おそらく単行本を書店で手に入れるのは難しいことと思われますが、電子書籍にはなっているのでもしも縁がありましたら、どうぞ。

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