僕はただ、ぼんやりと、紙ナプキンの文字を見つめていた。
それはまちがいなく、ノアちゃんの字だった。
行っちゃったんだ……。
僕はようやく手に持ったままだったお皿をテーブルに置く。床に転がったマカロンを拾い上げる。
いつかもこんなことがあったな。
あのときは、僕を助けるためにノアちゃんが一人で置手紙を残して出て行ったんだ。そして、一人でいじいじと悩む僕の背中をちはるが押してくれた。
部屋がやけに広かった。家の中は何の物音もしない。食器や家具が、息をひそめて僕を見守っているようだ。
僕はやがて立ち上がった。ノアちゃんが使ったお皿とカップを持って、キッチンに戻った。
そこには、まだ甘い匂いが残っている。僕がノアちゃんのために作った、たくさんのお菓子の匂い。その匂いに包まれて、蛇口をひねり、お皿を洗う。ボールや、ヘラや、泡だて器、お菓子を作る道具も、丁寧に洗う。
不思議と、静かな気持ちだった。
もちろん、悲しかったし寂しかった。ノアちゃんがいないなんて、まだ信じられない。もしかしたら、今にもドアが開いて、「師匠! 今日のおやつはなんですかー!」、そんなふうに叫ぶノアちゃんの声が、聞こえるような気もした。
でも。
ノアちゃんは、行っちゃったんだ。
負けず嫌いで、意地っ張りで、自分勝手なノアちゃん。
さっきも、自分のほうが先に泣いちゃったくせに、僕の顔をごしごし擦ってた。
もう、涙は出なかった。
ただ、しんとした静けさだけがあった。
もう、ノアちゃんには会えないんだろうな。
――ノアは、なんだか、そこからまた、始まる気がするです。
僕は思わず手を止めて、後ろを振り返った。
その声は、それほどに鮮やかだった。もちろん振り返った先には誰もいない。ただ、無人のキッチンがあるだけだった。
また、始まる……?
ノアちゃんは、新しい任務に向けて、ここを去って行った。ノアちゃんは、なにが始まるって思っているのだろう。どうしてあんなに、前向きな目をしていたんだろう。ノアちゃんの目は、何を見ていたんだろう。
僕は手を動かして食器を洗いながら、でも、ひたすらに考えていた。
ノアちゃんの言葉の意味。
「あ……!」
僕は思わず、手を止めた。
では、行ってきます。
ナプキンにはそう書いてあった。お世話になりました、でも、探さないでください、でもなく、ましてや、さよなら、でもなく、行ってきます。そう、書いてあった。
自分の心臓が鳴っているのが聞こえた。
未来。
ノアちゃんは新しい場所に旅立った。
希望。
それはきっと、任務だからじゃない。
可能性。
ノアちゃんは、自分で自分の道を選び取った。
それが、僕たちが出来る、運命への対し方だから。
気が付くと、完全に手が止まっていた。僕は蛇口を締めると、僕は手を拭くのもそこそこに、部屋を飛び出して電話の受話器をつかんでいた。
つづく