その後三日間、僕は意識を失っていたらしい。
目覚めたのは病院で、またしても白い天井と蛍光灯、そして、青ざめたノアちゃんの顔が見えた。
それからいくつもの検査を受けさせられたのだけど、でも不思議なことに、僕の身体には何の異常もなかった。ノアちゃんの話によると、僕は倒れたとき、鼻血を出して、心臓は今にも止まりそうなぐらい弱い脈しか打っていなかったらしいのだけど、それが嘘のように、目覚めたときの僕は自分でも不思議なぐらい身体が軽かったし、頭もすっきりしていた。
結局、それから二日、経過観察ということで入院させられたけれども、そのあとはあっさりと家に戻ることが出来た。
「こーへーに、ごめんって、言ってました」
綾野さんはノアちゃんが連絡したソサエティの医療チームが駆けつける前に、あの場を立ち去ったという。
綾野さんがこれからどうするのかは分からないけれど、でも僕は、いつか彼女が平和に、心静かに暮らせる日が来ることを、祈らずにはいられなかった。
正木さんは車の運転席で気を失っているところを、ソサエティに確保された。統括官代行としての職務を剥奪されて、尋問を受けているときからすでに、精神のバランスを失っていたらしい。今は拘束されて、専門の医療施設に収容されているという。
「おたふくの次は水疱瘡って、幼児か」と周りにからかわれながらもいつも通り学校に通い始めて、僕の周りは、以前となにも変わらない、日常が戻って来ていた。
そしてすべてが終わって、二週間ほど経った、六月も終わりに差し掛かったある日のことだった。
昨日からしとしとと雨が降り続いていた。その音を聞きながら、珍しくきちんと宿題をやっていたとき、部屋のドアがノックされた。
「……はい?」
僕は答えながら、首を傾げた。
ノアちゃんかな? でもノアちゃんは、用事があるときはノックする前に「師匠ー!」って大きな声で呼ぶし……。それともちはる?
そんなことを考えながら、ドアを開けると、そこにはやっぱり、ノアちゃんの姿があった。
「どしたの?」
なんとなくほっとしながら尋ねると、ノアちゃんは大きな瞳でじっと僕を見て、ぺこんと頭を下げる。
「お知らせがあるのです」
そう言うと、ノアちゃんは手に持っていた小さな端末を差し出す。
「なに、これ?」
僕は再び首をかしげながら尋ねた。なぜなら、その画面には何も映っていなかったからだ。
「特異点の情報を教えてくれます」
でもノアちゃんは、相変わらずの真面目顔で言った。
「はあ……」
特異点……、って、確かその場所にいるだけで運命が変わっちゃうって場所、だっけ? それで、イレギュラは歩く運命の特異点だって、前に聞いたことがあるような……。
「それで?」
僕の問いかけに、ノアちゃんは無言のまま画面に指を触れる。と、今まで真っ黒だった画面に地図が浮かび上がる。
よく見慣れた、家の近所の地図だ。
「便利、だね」
そうとしか言いようがない。
なんなんだろ? 新しい機械の、自慢?
でも、ノアちゃんは真面目顔のままだ。
「あの、僕、宿題を……」
「特異点が発生すると、こんな風に表示されます」
僕の言葉を遮って、ノアちゃんが再び画面を操作する。地図が拡大されて、広域図になる。その画面の端っこに、小さな赤い点が現れる。
「運命律への影響や特異性が高いほど、光は大きくなります」
再び、地図が小さくなって、僕の家を中心とした近所の図に戻る。赤い点は画面の外に消えた。
「うん……」
一体、何なんだ?
そう思った僕の頭の片隅に、何かが、それこそさっき見た赤い点のような光が点った。
イレギュラは、歩きまわる特異点……。
特異点が発生すると、赤く光る……。
運命律への影響や特異性が高いほど……。
僕ははっとして、ノアちゃんの顔を見た。僕が理解したことがノアちゃんにも伝わったのが、分かった。
ノアちゃんはこくりとうなずいた。
「もう、こーへーはイレギュラじゃ、なくなったみたいです」
「イレギュラじゃなくなるって……」
「ノアはこーへーの周りの運命律を、ずっと調査してました。前は、もっとおっきな赤い点、ぴかぴかしてたです。でも、病院にいて、目が覚めてから、赤いの、消えちゃいました」
僕の頭によぎったのは、綾野さんの言葉だった。
力を使いすぎると、壊れちゃう人もいる。
イレギュラでなくなる人もいる。
「ソサエティの人は、こーへーがいっぺんに、持ってる力使ってしまったかもって言ってました」
僕の考えを裏付けるみたいに、ノアちゃんが言った。
「こーへー、昔事故にあって、そのときに一回、死ぬはずでした。今度もたぶん、死ぬはずだったのが、また生き残って、それで今回は逆のことが起きたんじゃないかって」
「そうなんだ……」
今まで、別に自分がイレギュラだって自覚していたわけじゃない。ある日、ノアちゃんと出会って、あなたはイレギュラですって決めつけられて……。それが今度は、イレギュラじゃなくなりましたって言われても。
だから、僕の身体が固まったのは、イレギュラだとかそうじゃないとかではなく、ノアちゃんの次の言葉のせいだった。
「ノアは行かなくてはいけません」
「行くって……」
本当は分かっていた。頭では理解していた。ノアちゃんの言葉の意味も。
でも考えたくない。理解したと認めてしまったら、それが本当のことになってしまう。でも僕が分からないふりをしていたら、それはいつまでも、永遠に、ずっと本当にはならない。
「ノアのお仕事は、イレギュラの監視をすることです。でも、こーへーはイレギュラではないので、ノアのお仕事はなくなってしまいました」
ノアちゃんはいつも以上の、仏頂面で言った。
「さっき、ソサエティの人から、連絡ありました。ノアは別の任務に就くことになりました」
ノアちゃんは、どうしてだか、ただでさえ大きな目をさらに広げて、僕を見た。
「だから、ノアは師匠を破門にして、新しいお仕事のところに行くです」
「新しい仕事……」
僕は半ば呆然と呟いた。
ああ、やっぱり、そういうことか……。
いつまでも、ノアちゃんといられるわけじゃないことは、分かってた。何にだって、終わりは来る。それがどんな形なのか想像できなかったけれど、それがやって来るのはまだまだ先のことで、それにもしかしたらずっと一緒にいられるんじゃないか、そんな風に思っていた。
「新しい仕事って、どんな……?」
僕はのろのろと言った。
もしかして、また、新しいイレギュラを探して、1919年の再現を……?
でも、ノアちゃんは僕の心を見透かしたように、首を振った。
「ヨーロッパで、日本語と英語とフランス語が出来るノアぐらいの年齢の人員を探しているです。ノアは日本語、もともと上手だったのがとっても上手になったし、とっても優秀なので、引く手あまたです。それに」
ノアちゃんの瞳に、ちょっと不思議な色が浮かんだ。
「会いたい人、いるです」
「会いたい、人?」
「はい。1919年のイレギュラさんと、もう一人のノアの、お子様に会いたいです」
「え……?」
確か、1919年のイレギュラさんは、一緒にいた工作員の人とは、戦争が始まる前に離れ離れになって、それから行方不明でって……。
「この前、桜統括官が内緒で教えてくれたです。イレギュラさんは名前を変えて、ハウスで暮らしてたって。それで、二人の間には子供が出来たって。その人に会いたいです」
そう話すノアちゃんの目には、きらきらと光るものが浮かんでいた。
「ノアは、なんだか、そこからまた、始まる気がするです」
「そうなんだ……」
ノアちゃんの目は僕を見ていたけれど、僕を通して、その先の未来を見ていたのかもしれない。僕が見ることのできた、1分先の未来じゃなくて、もっともっと、遥か遠くの未来。
「いつ、行くの?」
僕は胸の中にこみあげてきた寂しさをこらえつつ、尋ねた。
「もう、行きます」
「え? だって、荷物とか……」
「荷物はもう、ソサエティに送りました。あとは、ノアだけです」
「そんな、急に……」
僕は呆然と言った。
だって、今そんな話聞いたばっかりで、心の整理だってつかなくて……。
「では」
でも、ノアちゃんはくるりと背中を向けた。
「ちょ、ちょっと待って!」
僕はあわてて大声を上げた。
いくらなんでも、急すぎる!
ノアちゃんは僕とは住む世界の違う人間で、同じ海外に住んでいても、そんなに簡単に電話やメールで連絡を取るなんてできないだろうし、もしかしたら、これが最後のお別れになるかも知れないのに、これでさよならなんて……!
「そ、そうだ! お菓子! 僕、お菓子作るよ! ね? もう食べられないかも知れないから、だから、ちょっと待ってくれれば……!」
自分の声が震えているのが分かる。でもそんなことには構ってられない。だって、だって、これがお別れになるかも……。
ノアちゃんがくるりとこっちを向いた。
と。
「痛たたたた!」
気が付いた時には、ノアちゃんが袖でぐりぐりと僕の顔を擦っていた。
「男の子は、泣いちゃだめです」
「な、泣いてなんか、少なくとも、まだ……」
でもノアちゃんはぐりぐりを止めようとしない。
「ちょ、ちょっと、ノアちゃん……」
言いかけて、はっとした。
ノアちゃんの目に、いっぱい涙が溜まっていた。その涙はこぼれそうだけど、こぼれない。ノアちゃんは大きな目を潤ませて、でも、必死で我慢していた。
「泣いちゃ、だめです!」
そう言いながら、僕の顔を擦り続ける。
「泣いたら、もっと悲しくなるから、悲しくなんかないから、泣いちゃ、ダメ!」
胸の中に何かがぐっとこみあげてきて、目蓋の裏が熱くなり、僕は上を向いた。
「ごめんね、ノアちゃん。もう、泣かないから」
僕は声を詰まらせて、言った。
「……分かったら、いいんです」
そう言って、ノアちゃんはまた背中を向けた。
「ノア、師匠のお菓子、食べたいです」
つづく