もう街は明るくなってはいたけれど、まだ日の出にはもう少し時間がある。夜の青と、朝の橙が混じり合う時間。地面の近くを、靄の名残りが光を煌かせて舞っている。
その中に、ぼんやりと綾野さんが姿を現す。
「おはようございます、野島先輩」
学校の近くの、国道だった。綾野さんはその車道の真ん中に立っていた。
「これから十五分、この場所は運命の空白地です。誰も、私たちの邪魔はしません」
そうして車道から、歩道を歩く僕たちに手招きをする。
「だからもうちょっと、近くにいらしてくださいませんか?」
僕とノアちゃんは無言でうなずきあって、ガードレールのすき間から、車道に降りた。
一歩一歩、綾野さんに近づく。
何かの気配を感じたのか、出されていたごみをついばんでいたいた鴉の群れが、一斉に飛び立った。
「さて」
綾野さんが言った。唇は柔らかく微笑みの形を作っているけれど、猫のような目は決して笑っていない。
「ご決心はつきましたか?」
僕はじっと綾野さんの目を見て、うなずく。
「ずっと考えてたんだ。綾野さんに言われたこと。もし、僕の大切な人が傷つく運命なら、僕は運命を変えてでも、その人を助けたい。たとえ、そのために世界がおかしくなっても、その人の命が救われるなら、それでいい。僕には大切な人がいっぱい、いるっていうことにも、気が付いた」
家族や友達、今まで僕に優しくしてくれた人、見守ってくれた人。
僕を信じるって言ってくれた大切な人たち。 そして、1919年のイレギュラさんのように、直接は出会っていないけれど、運命が回り回って、今の僕を、ここに立たせてくれる人たち。
「そんな人たちを守りたいって、思う」
綾野さんは、どこかほっとしたような様子で小さくうなずく。
「じゃあ」
「でも」
僕は綾野さんの言葉を遮って言った。
「君とは、行けない」
聞き違えたとでも思ったのかもしれない。一瞬、綾野さんが首をかしげる。
だから僕はもう一度、言った。
「僕は、ユニティに協力することは、できない」
数瞬の間があった。
辺りは完全に静寂に包まれている。
ようやく、綾野さんが口を開く。
「なぜ?」
「だって、僕は、特別じゃないから」
「ちがいます。野島先輩は、特別な力を持ったイレギュラで……」
「そうじゃないんだ。確かに、僕はイレギュラで、特別かもしれない。でも、それは僕だけじゃない」
そう、僕だけじゃないんだ。
僕のことを友達だって言ってくれた岩田くん、僕に勇気を見せてくれたちはる。
「思ったんだ。確かに運命は存在して、そのために、ひどいことや悲しいことが起きる。でも同じぐらい、いいことも、幸せなことも起きる。僕だって、いつか、死んでしまう日が来る。僕に大切な人がいるみたいに、僕のことを大切に思ってくれて、それを悲しんでくれる人がいるかも知れない。でも、死んじゃったからって、僕のこと、忘れてほしくはないけれど、それでも笑って、前を向いて、歩きだしてほしいと思う。絶対に、そう思う。僕は、僕を助けるために、運命を変えてほしいとは思わない」
理解できないというように、綾野さんが首を振る。
「じゃあ、野島先輩は、運命の通りに生きるってこと? どんな悲しいことがあっても、にこにこ笑って受け入れるってこと? ずっと運命に縛られて、それでも生きて行くってこと?」
「ちがう」
綾野さんの言葉に、僕も首を振った。
「今まで僕のしてきたこと、これから僕がすること、それが僕の、それから僕の周りの運命を動かす。ときには抗いたくなる運命も、拒みたくなる運命も、受け入れないといけない運命もあると思う。でも、それは、僕には関係ない」
綾野さんの唇が、ほんのわずか、ぽかんと開かれた。
「運命がどうであっても、僕は僕の足で歩いていくしかないって思うだけだから」
それが、悩んで悩んで悩んだ僕の、結論だった。
これから先、僕の前には変えたくなる運命がたくさんやってくるだろう。でもそのたびに運命を変えようとしたならば、僕はたぶん、何もできない。ただ運命を変え続けることが、生きる意味になってしまう。
「運命に縛られてるのは、君のほうだよ、綾野さん」
「どういうこと?」
「だって君のしたいことは、復讐でしょう?」
僕の言葉に、綾野さんの形のいい眉がぴくりと跳ねあがった。
「君は、自分の大切な人を殺した運命とソサエティに、復讐したいだけなんでしょう?」
「ちがう、私は、助けられる命を助けたい、ただ、そう……」
「だったら、どうして人を傷つけるの?」
「私が、誰を……?」
「僕が、ビルの谷間のカフェで座っていたとき、たくさんの人が傷ついたでしょう? 死んだ人もいるって、聞いたよ?」
「あ、あれは、私じゃない、別のグループが……」
「でも、綾野さんなら、止められたんじゃないの? あそこにいた人たちの中には、たくさんソサエティの人もいた。ソサエティの人なら構わない、そう、思ったんでしょう?」
今まで冷静だった綾野さんの顔から、血の気が引いていた。
「……そうよ」
さっきまでとは別人のような低い声だった。
「だって、私はソサエティに、大事な人を殺された。ソサエティが、私の、大切な人を奪った。あなたの言うことはまちがってない。そう言うかも知れないとは、思ってたし。けど、あなたが私と同じ目に遭ったら、それでもそんなことが言い続けられる?」
そういう綾野さんの手には、拳銃が握られていた。
でも銃口が向いているのは僕ではなかった。それは、僕の脇に立つ、ノアちゃんの胸を向いていた。
「もし私が引き金を引いて、彼女が死んでも、そんなことが言い続けられる? 野島先輩」
狂おしいほどの光を放つ綾野さんの目に見つめられて、僕は答えるどころか身動き一つできなかった。
綾野さんがそこまでするなんて、考えてもみなかった……!
と。
硬直する僕の隣で、すうっとノアちゃんが動いた。
両手を軽く広げて、僕の前に出る。
「撃っても、いいですよ」
「!」
綾野さんの目に、衝撃が走った。
「撃って、何かが変わると思っているなら、撃ってみたらいいです」
ノアちゃんの声は、落ち着いていた。
「ノアちゃん……」
僕の呟きに、ノアちゃんは大胆にも、僕を見てにこっと笑った。
こんなときだけど、でも僕はその笑顔に見とれた。小さかったけれど、それは見たことのない、素敵な笑顔だった。
「ちょっとだけですけど、ノア、この人の気持ち、分かるので」
「え……?」
吐息のように小さな声を洩らしたのは、綾野さんだった。
「ノアにはお父さんもお母さんもいなくて、いると思ってたのにいなくて、ホントのホントに一人ぼっちだったって分かって、それにあかねお姉ちゃんもすごく怪我して、許せないって思って、美味しくないケーキ食べたときみたいに、胸の中がもしゃもしゃして、だから、この人の、気持ち、ちょっと分かるです」
「そんな、私の気持ちなんて……」
綾野さんが、顔を蒼白にして、呻く。
「ノアは、あの地味顔のおじさんと違って、それほど死にたくはないですけれど。でも撃ってすっきりするなら、撃ってください」
「……わかった」
綾野さんが言った。
「そこまで言うなら、わかった」
暗く、澱んだ声。小さく震えながら、でも、綾野さんは銃を構えなおす。
「私は、私から大事な人たちを奪ったソサエティを許せない。私は、許せない、許せない、許せない……」
まるで自分に言い聞かせるような口調。自分で自分を、信じ込ませるような、でもどこか狂気を感じさせる口調。
「綾野さん!」
ノアちゃんの前に飛び出そうとした僕を抑えたのは、ノアちゃん自身の細い腕だった。
「ノアちゃん……」
ノアちゃんは何も言わなかった。僕を見ることもなかった。ただ、瞳に強い力を込めて、綾野さんを見つめていた。
銃を持つ綾野さんの手に、力がこもる。
その手がやがて、少しずつ、上に上がる。銃口がノアちゃんの胸から喉に、そして額に……。
そして、ぷつりと糸が切れたみたいに、綾野さんは銃を下ろした。
「……撃てるわけ、ないじゃない」
目を閉じて、ふうう、と長く息を吐く。
「そんなことをしたら、私もソサエティと、同じになっちゃう」
そう小さな声で言うと、綾野さんはくるりと背中を向けた。
「……どこへ、行くの?」
「また、探す。野島先輩と同じくらいの力を持てて、私に力を貸してくれる、イレギュラを」
だって、と僕たちを振り返り、力なく笑った。
「恨みは、消えないから」
そうしてまた、綾野さんは歩き始めた。
静かに、どこかへ消えて行く。
遠くで、車のタイヤが鳴る音が聞こえた。
ああ……、もう空白の時間が終わるんだ。少しずつ遠ざかっていく綾野さんの背中を見ていると、きゅっと胸が痛んだ。
野島先輩と、僕のことを呼んでくれた女の子。彼女はこれから、どこに行くんだろう……。これからずっと、綾野さんは復讐のために生きていくんだろうか。
「……?」
なぜか、綾野さんが足を止めて、ふっと周りを見回して怪訝な表情になった。そして何かを呟く。
少し距離があって分からなかったけれど、綾野さんの唇は、こう動いたように見えた。
早すぎる、と。
どういう意味……?
再び、タイヤの音が静寂を切り裂く。エンジンの音が空気を震わせる。どうやら、かなりのスピードを出しているらしい。そして、ライトが、車道の向こうで光った。
「なに……?」
一台の黒い乗用車が
――タイヤが鳴る。アスファルトが軋む。ゴムの焼ける匂い――
こっちへまっすぐに
――急ブレーキ。煙を上げる。ぎらついた目――
突っ込んで
――跳ね上がる細い身体。「お前が、お前が、お前が!」調子の外れた喚き声――
「……!!」
もう、それは痛みですらなかった。
すべての感覚が頭の真ん中の真っ白な部分に収束される。視界がまだらに白く染まって、それが裂けて行く。いくつもの爆発が起きているような、雷鳴に包まれているような感覚。
「師匠!」
ノアちゃんが悲鳴のような声を上げて、倒れ掛かった僕の身体を支える。
「車が……、綾野さんが……」
地面に座らされて、今見たことをノアちゃんに伝えようとするけれど、舌が正常に動かない。綾野さんは猛スピードで走って来る黒い車を凍りついたように見つめている。
そこから先は、ストップモーションのようだった。
綾野さんの身体が、飛ばされる。
銀色のバンパーがサメの歯のように凶暴な光を放ち、車が進路を変えてこちらに突っ込んでくる。僕を突き飛ばしたノアちゃんの身体が、宙に撥ね上げられた。
湿った音がして、細い体が地面に叩きつけられる。
再びタイヤが鳴って、今度は車が急停車する。
乱暴にドアが開いて、大きな銃を持った正木さんが姿を現す。
「お前が、お前が、お前が」
髪も服装も乱れて、目を血走らせた正木さんは、ぞっとするような調子の外れた口調で呟き続けている。
「お前が!」
銃声。1発、2発、3発。倒れたままの綾野さんの身体が、そのたびにびくりと痙攣する。
嘘だ。
こんなの嘘だ。
まだ朦朧とした意識の中で、目の前に起きる出来事を半分しか近く出来ない。
これは本当に起きていること?
「ノ、ア、ちゃん……?」
身体が言うことを聞かない。それでも右手をのばしてアスファルトを掴む。力を入れる。
ようやく気が付いたのか、肩で息をしていた正木さんが僕を見て、首を傾げた。それから、こっちに拳銃を向ける。
視界の端に映ったそんな光景も、でも、ほとんど見えていないも同然だった。
嘘だよね?
こんなの、嘘だよね?
がちゃりと弾を装弾する音が聞こえた。正木さんが僕に銃口を向けているのだろう。僕のことも撃つつもりなんだろう。
ばん! とやけにわざとらしい銃声が
――「お前が!」調子の外れた声。銃声。1発、2発、3発――
水の中から大きな泡が上がって来るように、今までとは質の違う痛みがあって、そして視界が赤く染まった。
「……なに、これ?」
目の前では、綾野さんの身体がびくん、と跳ね上がっている。首を動かすと、ノアちゃんの細い体が血だまりの中に横たわっている。
正木さんが再び僕に気が付いた。
そして、首を傾げる。
さっきも見た。
それも僕の頭の中でじゃなく、現実で。
正木さんが僕に拳銃を向ける。
どん、と自分の心臓がおかしな具合で鳴った。同時に、ごぼりと何かの塊が
――「お前が、お前が、お前が」調子っぱずれの口調。乱れた髪。血走った目――
正木さんが拳銃を手に、ゆっくりと綾野さんに近づく。まだ撃たれていない、生きている、綾野さんに。
綾野さんは呆然としていたが、やがてはっとしたように、正木さんと、僕を見た。
「お前が、お前が、お前が」
綾野さんが、ぱっと地面を転がった。正木さんの放った銃弾が、かつん! とアスファルトに穴を穿つ。
時間が、戻ってる?
〈前に進めるなら、後ろにも進める〉
澄んだ空気の中で鳴る、ウインドウチャイムのような声が聞こえた。
〈前に進めるなら、後ろにも進める。それを選択するときが来る〉
運命読みの少女が、託した言葉。
ぱん、と頭の中でなにかが鳴った。なにかが破裂したような、嫌な音。まるで高架の下にいるみたいな騒音が聞こえる。
――「お前が!」調子の外れた声。銃声。1発、2発、3発――
目の前でまた、綾野さんの身体が跳ね上がった。正木さんは、一瞬首を傾げたあと、怪訝そうに僕を見た。
戻れる。
僕の力は、未来を見る力じゃない。ありえたかも知れない未来の世界に、足を踏み入れることができるのが僕の力。
それなら。
〈前に進めるなら〉
もう選んでしまった世界にも、
〈後ろにも進める〉
足を踏み入れることができるんじゃないか?
――タイヤが鳴る。車が停車する。ドアが開く――
もっと前。
そう思うと同時に、視界がぶれた。ぱつん、と鼓膜が音を立てる。聴覚がなくなり、変わりにキーンと高い音が鳴り続ける。頭が痛い。息が苦しい。
でも。
――銀色に光るバンパー。宙を舞う身体。黒くて長い髪が広がる。血が糸を引く――
心臓がリズムもテンポもめちゃくちゃに鳴る。それに合わせたように、眼球が痛む。服の生地を擦れるだけでも、皮膚が破れそうになる。
力を使いすぎると、壊れちゃいます。綾野さんは確かにそう言っていた。運命を変えるだけの力に、身体は耐えられない。
もしかしたら、これが壊れるってことかもしれない。
でも。
――猛スピードで走って来る車。立ちつくす綾野さん。ノアちゃんが飛び出す――
壊れたっていい。
壊れたって、構わない。
君のためなら。
――ブレーキ音。エンジンの音。車道の向こうから、ライトが姿を現す――
隣ではっと息をのむ気配がした。
「師匠?」
僕はノアちゃんにうなずいて見せた。
ノアちゃんもうなずきを返して、綾野さんに駆け寄る。唖然とした表情の綾野さんの手から銃をもぎ取った。
そのまま膝立ちの姿勢で銃を構えた。
銃声は短かくて、控えめだった。
相変わらずスピードを緩めずに突っ込んでくる車の右の前輪から火花が上がる。コントロールを失った車が、ガードレールに突っ込んだ。
僕が見届けられたのは、そこまでだった。
白い痛みのあとにやって来たのは、完全な漆黒の世界だった。
「こーへー!」
僕が聞いたノアちゃんの声。
僕の意識は、それを最後にぷつんと途切れた。
つづく