高速を降りた車はやがて、山道に入った。そこからさらに一時間少し、その建物の前で車が停まったとき、辺りはもう、真っ暗になっていた。
目の前にあったのは、三角の、特徴的な屋根が載った、古い洋館だった。
「しばらく、ここに隠れているといい。水も食料も、信頼のおける人間に届けさせるように手配済みだ」
そういうと五十嵐さんは、僕を安心させるように大きく頷いた。
「ソサエティの中には正木代行に反感を持っている人間も多い。桜統括官は、あれでというか、ああいう人だから、人気があったからね。君たちが家に戻れるのも、それほど先のことじゃない」
その言葉に僕は小さく頷いて、のろのろと口を開いた。
「正木さんはやっぱり……」
「ああ。自分の手で1919年の再現を推し進めたいんだろう。君たちを自分の手で確保して、色々と試そうと思っているんだろうが、君たちのことを考えれば、そんなことは、強引にやっていいことじゃない。まして、今はユニティが攻勢に転じている時期だ。他にするべきことは山のようにある」
「でも、あの……、こんなことして、五十嵐さんは……」
今更ながらにそのことに思い当って、言った。
反対する人が多かったとしても、正木さんは統括官代行なのだし、その命令に逆らったら、五十嵐さんの立場が……。
「大丈夫。気にするな」
でも五十嵐さんは力強く、断言した。
「元々、今俺が所属している運命局と作戦局は、あまり仲が良くないんだ。それに、俺は、俺たちは君に恩があるから」
「恩って……」
「君には、大事なことを教えられた。君がいなかったら、危うく、自分が一番大切にしなければいけないものを失うところだった」
そう言うと、五十嵐さんはにっこりと微笑んで、車に乗り込んだ。
「それから、これはココからの伝言だ」
「ココちゃんから?」
「ああ。あいつは君に伝えてくれと言っていた。いいか?」
僕がうなずくと、五十嵐さんは目を閉じて、それから言った。
〈前と後ろに、同時に進むことはできない。けれど、前に進めるなら、後ろにも進める。それを選択するときが来る〉
「そう伝えろと、言っていた」
「前と後ろ……?」
まったく意味が分からなかった。でも、あのココちゃんが言っていたことだ。きっと、とても大切なことなんだろうけれど……。
「それじゃあ、俺は行く」
五十嵐さんがキーを回してエンジンの音が鳴り響き、僕は我に返った。
「あ、あの! ココちゃんは今……?」
僕があわてて問いかけると、五十嵐さんは柔らかく笑った。
「元気だよ。今は少しずつ、記憶が薄らいでいっているけれど、でもあいつは、頑張ってる」
「もう、記憶が……?」
運命読みになるためには、すべての記憶を失わなくてはならない。そのことを恐れ、試験からも逃げていたココちゃん。でも最後はそれを笑って受け入れたココちゃん。ちょっとずつ記憶を失っていくなかでも、それでもがんばって……。
「もう半年もすれば、新しい運命読みが生まれているだろうな。ソサエティの歴史の中で、もっともすぐれた運命読みが」
だから、君たちも心配するな。きっと、すべて上手く行くさ。
そう言うと、五十嵐さんは片手をあげてから、車を発進させた。僕は闇の中に消えるまでテールランプを見送ってから、洋館のほうへと向かった。
明かりらしい明かりはほとんどなく、埃だらけの玄関灯が曇ったオレンジ色の光でエントランスを照らしていた。そして突然、そのドアが開く。
「……師匠」
ノアちゃんが大きく目を見開いて、僕を見上げていた。黒い瞳に、オレンジ色が反射してきらきらと光る。と、ノアちゃんが怪訝な顔になった。
「怪我、いっぱいしてます。どうしたですか?」
「えっと、これは……」
僕の言葉を待たずに、いつもの仏頂面で、言う。
「相変わらず、どんくさいですね」
「……ごめんね、どんくさくて」
いつも通りのノアちゃんを見たとたん、僕の心には安堵感と、そして同時に鋭い痛みがやって来た。
車の中で聞いた、五十嵐さんの話。
ノアちゃんは、1919年の出来事を再現させるために、人工的に、作られた存在だった。
「だって、ノアちゃんには両親もちゃんと、いるんですよ? あんまり会ったことないって言ってたけど、それはソサエティでは普通のことでって……」
そういう僕に、五十嵐さんは言ったのだ。
「両親がソサエティの人間で、その子も生まれたときからソサエティの一員だというケースは、多い。俺もその一人だ。でもな、浩平くん、いくら特殊な組織だからって、両親と子供がほどんど会ったことがないなんて、そんなこと、あると思うか? 俺だって、十歳になるまでは両親と一緒に暮らしていたよ」
そして僕は思い出した。
あかねさんが撃たれた次の日、ノアちゃんの言った言葉。
あのとき、確かにノアちゃんは言った。
わたしは、だれ?
それに、ノアちゃんのPCの中にあった古い写真。
時代のせいだろう、服装も髪型もちがうし、そもそも年齢も違ったように見えたけれど、でもあの写真の女の人は、ノアちゃんに気味が悪いほどそっくりだった。
もしかして、あの写真の女の人が、1919年の工作員、「ノア」という名前を持った人だったんじゃないだろうか。
ということは、ノアちゃんは、もしかして自分のことを、もう知ってる……?
「どうしたですか?」
ノアちゃんは首をかしげて僕を見つめている。
「ああ、うん、なんでもない」
そう言いながらも、僕はノアちゃんの目を見ることができなかった。
つづく