『回る回る運命の輪回る3 君と僕と、未来の世界』16話

翌朝、僕は玄関のチャイムの音で目を覚ました。六時前という早い時間で、普段なら二階の部屋で眠っている僕は気がつかなかったかもしれないけれど、でも色々と考えているうちに何となく眠りも浅くて、一晩中寝返りばかり打っていたから、その音は小さかったけど、僕の目を覚ますには十分だった。
「誰だろ……?」
目を覚ましたけれど、こんな早くに来るお客さんなんて全く心当たりがない。宅配便のはずはないし、もしかして、ちはるか岩田くんが心配して来てくれたとか……?
 

そう思いながらも、でもなんとなく警戒して玄関を開けた。
そこには、朝も早いというのに、しっかり髪をオールバックに整えて、三つ揃いのスーツを着た正木さんが立っていた。
ドアを開けたとたん、何も言わずに無言のまま、僕を押しのけるようにして玄関に入って来る。
「なんですか、こんなに早く……?」
いぶかしむ僕に、正木さんは鋭い視線を投げてよこす。
「聞きたいことがある。昨日の午後四時から五時の間、なにをしていた?」
「いきなり、なにを……」
「いいから、答えろ。なにをしていた?」
考えるよりも先に、口が動いていた。
「たぶん、学校の中庭で後輩と話をしてました。綾野さんという後輩です。悩み事があったみたいで」

声は僕の声だったけれど、でもそれは、僕の言葉ではなかった。
「君の警護の人間にも偽の記憶を植え付けておくが、それでもソサエティは不審を抱くかもしれない。念のために、君の中に〈私の言葉〉を埋め込ませてもらう」
昨日、別れ際に腹話術師さんはそう言った。ソサエティの人に昨日の行動を尋ねられた場合、僕の口が勝手に動くように細工を施しておいたのだ。
「ふん……」
すらすら答えた僕をなんだか胡乱げにじろじろと見ていた正木さんは、納得したようには見えなかったけれど、やがて視線を家の奥に向けた。
「警備の者からも同じような報告を受けている。ちょっと気になることもあったが、まあ、いい」

そう言うと、柾さんはいつものように後ろに控える大男二人を振り返った。
「探せ」
正木さんの言葉に軽く頷いて、男たちは玄関に上がって、廊下を進もうとした。
「な、なんですか!?」
僕はあわてて進路を遮ろうとしたけれど、男の太い腕に苦もなく押しのけられる。
「ここにいる工作員に用がある。一緒に来てもらう」
正木さんが言った。
「で、でも、ノアちゃんは今、体調を崩してるんです!」
僕はあきらめ悪く男の前に回り込もうとしながら大声で言った。でも大男たちは、僕のことなんかありんこにしか思えないみたいに、どんどん廊下を進んでいく。
「ちょ、ちょっと待って……!」
と、急にからりと客間のふすまが開いた。
「ノアちゃん……」
 

黒の上下を着こんだ、ノアちゃんが立っていた。
「師匠、ノア、大丈夫です……」
そう言うノアちゃんの顔は、でもまだ青白い。
「早く来い」
どういうわけか、嫌なものでも見るような目つきをした正木さんが冷たい声で言う。
「本当に、大丈夫なの?」
僕は尋ねた。どう見ても、ノアちゃんの顔色は大丈夫には思えなかったからだ。
「心配、しないで」
言いかけたノアちゃんの身体がふらりと揺れた。
「無理しちゃダメだよ!」
「ノア、お仕事ですから……、大丈夫です」
「ぐずぐずするな」
正木さんが苛立ったような声を、

――太い腕が伸ばされる。手首をつかむ。小さな呻き声。「時間がない」引っ張られる。小柄な身体が、床に倒れる――

かっと頭に血が上った。
硬いもので頭を殴られたような、今までにない痛みがやって来たけれど、でも、そんなことも気にならなかった。
まるで身体が自分のものじゃなくなったような感覚。
「やめてください!」
気が付いたら、僕は大男とノアちゃんの間に割って入って男の腕を払いのけていた。
「ノアちゃんは具合が悪いんだ! 用があるなら、身体が良くなってからにしてください!」

僕に腕を叩かれた大男が一瞬、きょとんとして、それから顔にほんのわずか、凶暴なものがよぎる。改めて僕の身体を退かそうと腕を伸ばしてくる。
でも、僕はここを退くつもりはなかった。力では敵うはずなんかないけれど、足を踏ん張って、ぐっと堪えた。僕が反抗するとは思っていなかったのだろう、大男がいら立ったように、反対側の腕で僕の襟首をつかもうとした。
「やめろ」
舌打ちの音がした。

振りかえると、正木さんが不快感もあらわに、顔を歪めている。正木さんはもう一度舌打ちをして、言った。
「こんなところで揉めても仕方がない。今日のところは、仕方ない。ただ、明後日までに必ず、出頭するように」
ノアちゃんを見もせずそう言って、くるりと踵を返す。あわてて、大男が二人、その後ろを追って行った。
ばたん、と玄関のドアが乱暴に閉まる。

「師匠……」
なんだか力が抜けてしまって、呆然と立ち尽くしていた僕は、やっとノアちゃんの言葉で、我に返った。
「ノア、大丈夫だったのに……」
「ダメだよ、無理しちゃ」
そう言って笑顔を作った。ずいぶん、かちかちだったけれども、まあ、笑ってるようにはみえただろう。
「さあ、ノアちゃん、朝ご飯食べよう? そうだ、昨日、クレーム・ブリュレ、作ったんだ。今日は特別に、それ、ご飯の代わりに……」
そう言いながら、リビングのほうに行こうとした僕の手をノアちゃんがきゅっとつかんだ。
「なに……?」
振り返ると、こっちをじっと見つめる、ノアちゃんと合った。大きくて黒い瞳に真剣なものを湛えている。
「どうしたの……?」

なんだか催眠術に掛かったような気持ちでぼんやりと言った僕にも構わず、ただ、ノアちゃんは僕を見つめている。やたらに真剣な顔でしばらく僕の目を見ていたと思ったら、急に僕の手を握り直した。
「え……?」
一瞬、何が起きたか分からなかった。気がついたときには、ノアちゃんの細い身体が僕の腕の中にいた。
「ノ、ノアちゃん……!?」
ふわり、とオレンジのような香りが立ち上って、細くて長い髪が鼻をくすぐる。
「ちょ、ちょおっと、こ、これは、あの……」

ノアちゃんは答えずに、僕のシャツをぎゅっと握りしめたままだ。
顔が熱い。顔だけじゃなくて全身が熱い。心臓はぼんぼん飛び跳ねて、頭の中では時代劇に出てくる「火事だあ!」の半鐘がじゃかじゃかなっている。
「え、ええっと、その……!」
と、そのときに妙なことに気がついた。ノアちゃんの指が、僕の手の平の上で動いていた。
(……ん?)
直線。途切れて、ゆっくりと、曲線。また途切れて、直線。
……文字?
ノアちゃんは顔を僕の胸に埋めたままだけど、でも、その指は意思を持って動いている。何かを、僕に伝えようと……?
(……と?)
何度も繰り返されているうちに分かって来た。ひらがなだ。
と。
ひらがなの、と。
分かった、という合図の代わりに、僕が軽く、ノアちゃんの指を包むように手の平を握ると、今度は指の動きが変化する。
う。
また手を握る。ち。よ。う。か。め。ら。
と、う、ち、よ、う、か、め、ら。
盗聴……? カメラ……?
思わず左右を見回しそうになった僕の首に、ノアちゃんの細い腕が巻き付く。
ぎゅっと抱き寄せられた耳元に、ノアちゃんの暖かい息が掛かった。
「しゃべったらだめです」
柔らかい唇が耳にほんの少し触れ、でもどきどきする間もなく、ノアちゃんが続ける。
「ノア、お芝居するです。師匠、ちょっと我慢してください」
我慢……って?
そう思ったのだけど、その意味はすぐに分かった。
「師匠の、馬鹿!」
ばっちん! と盛大な音がして、右の頬が熱くなった。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿! 師匠なんか、もう、大嫌いです!」
続けざま、左右の頬で痛みが破裂する。
「師匠なんか、もう知りません!」
「ぐお!」
とどめにお腹にキックを一発。廊下にひっくり返って呻く僕を残して、ノアちゃんは顔を真っ赤にして、リビングのほうに駆け去っていく。
「ちょ、ちょっと待って……!」
痛みをこらえながら、僕は何が何だかわからないまま、ずりずりとノアちゃんを追った。

が、リビングではさらなる苦難が僕を待っていた。
いきなり、僕の頭をなにかがぼふっと直撃した。衝撃はあったが、それほど痛くはない。見ると、いつもソファに置いてある、黄色のクッションだ。
そしてそのクッションに、さくっという軽い音とともに銀色のものが、生えた。
「こっち来ないでください! 嫌いって言ったじゃないですか!」
今度は銀色のものが煌きを残して僕の頬のすぐ横を通過する。かつっ! と鋭い音を立てて、壁に突き立つ。
金属製の、フォーク。
「ちょ、ちょっと、なに!」
「なにじゃありません! もう、ノアは師匠には愛想が尽きました!」
箸、フォーク、ナイフ、串。言いながら、キッチンに立つノアちゃんは次々と手元のものを投げつけてくる。
 

僕はあわててクッションで頭をかばいながら、ソファの陰に転がり込んだ。
「師匠なんか、解雇です! 破門です! 死して屍拾うものなしです!」
「な、なんか良く分からないけど、落ち着いて!」
様子をうかがおうと頭を出したら、円盤のように平たいフライパンが回転しながら飛んでくるのが目に入って、あわててまた頭を引っ込める。
これ、ってなに? ノアちゃんはさっきお芝居をするとか言ってたけど、本当に芝居なの?

そんなことを考えている僕の頭上を長い銀色のもの――たぶん、天ぷらを揚げるための金属の菜箸――が二本通過して、片方はエアコンの隣に、もう片方はスピーカーの上に置いてある人形に突き立った。
ノアちゃんに掛かれば、なんでも武器になってしまう……。
っていうか、なに? 僕なんか、ノアちゃんを怒らせた? いや、それは確かに、僕は鈍感で、ちはるにもよく言われるけれども、人の気持ちに気づかないことがあって、それでなにか気に障ったのかもしれないけれど、でも……。
 と、突然、キッチングッズによる即席飛び道具の来襲が止んだ。

                                 つづく

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