結局、その日僕は、一日のほとんどを保健室で過ごした。
教室で授業を受けているときも、体育でグラウンドにいるときも、ただ普通に、廊下を歩いているときでさえ、気がかりで仕方なかった。
もし僕のせいで、周りがおかしくなってしまったら。また何かが起きて、周りの人が傷つくようなことがあったら。
僕の様子があまりにもおかしかったのだろう、ちはるはもちろん、いつものように話しかけて来た里見も大竹も、僕の反応が鈍いのを見ると、首をかしげながら離れて行った。
「すみません、具合が悪いので保健室行ってきます」
僕がそう先生に言ったのは三時間目のことだった。いっそのこと、早退してしまおうとも考えたけれど、でも普段通りにと強く言われていることだけでなく、いつもと違うことをして、またなにかがおかしくなってしまうことが怖かった。
「お、ちょうどいいとこに来た」
僕の顔を見るなり、麻奈美先生は言った。
「これからちょっと出張で、明後日までいねえんだよ。お前、保健室慣れてるだろ? ちょっと番しててくれよ」
相変わらずの男っぽい口調で言うと、よほど急いでいるのか僕をからかうこともなく保健室を出て行く。
「いってらっしゃい……」
ひとり取り残された僕は、翻される白衣の背中に言った。
まあ、それを知ってたからここに来たんだけど。
保健室には麻奈美先生ひとりとはいえ、それでもやっぱり、僕のせいで何かあってはいけない。
でも先生が出張で留守になると保健室にやって来る生徒もぐっと少なくなるから、ここにいれば、周りの人に迷惑をかけることも少ないだろう。その後、三時間目の休み時間にはちはるが、昼休みには里見と大竹が様子を見に来てくれたけれど、寝たふりをしてやり過ごした。
僕は保健室のベッドに横になったまま、壁に掛かった時計を見上げた。三時過ぎ。いつもなら、眠い目をこすりながら授業を受けている時間なのに、ベッドに横になっていてもちっとも眠くならないのは、なんだか皮肉な感じがした。
(これから、どうしたらいいんだろう……?)
いつまでも、こうして人を避けているわけにはいかないことぐらいは、僕も分かっている。でも、人がたくさんいるところにいて、また何かが起きたら。
せめてあの、黒いバイクに乗った集団の正体でも分かればいいのだけれど、でも、正木さんも他の人も、なにも教えてくれようとはしない。
それに、ノアちゃんのことも気がかりだった。
ノアちゃんは、ソサエティのデータベースにアクセスできないと言っていた。あんな不安そうなノアちゃんは今まで見たことがない。
これはノアちゃんの周りの状況にもなにか不穏な変化が起きているという証拠なのだろうか……?
そんなことを考えていた僕の耳に、終業のチャイムが聞こえて来た。
(あ……)
時計を見ると、もう三時十五分を回っている。
(どうしようかな……)
たぶん教室では、授業のあとのホームルームが始まっているだろう。もうしばらくしたら、教室に戻ってカバンを取って、帰ろう。そう思って、時間つぶしに自分が使ったベッドをゆっくり整えて、保健室を出た。
「あら、野島先輩!」
ちょうど前を通りかかった女の子たちの一人が足を止めて、言った。
「どうなさったのです? 身体のお加減でも優れませんか?」
綾野さんはそういうと、ちょっと首を傾げた。
「あ、いや、別にそういうわけでも……、綾野さんこそ、どうしたの?」
「私はこれからトイレの掃除に向かいます!」
勇ましく、片手に持ったバケツを掲げて見せる。
「はあ……」
その様子に面食らった僕の脇を、「萌、先行くね~」と、綾野さんと一緒にいた女の子たちが抜けて行く。
「学校、馴染めてきたみたいだね?」
うん、すぐ行く! と笑顔を友達に向けた綾野さんに尋ねると、
「ええ、少しずつですが」
綾野さんが元気に答えた。
「そっか……。よかったね」
目の前でにこにこと笑う後輩を見ていると、なんだかほんの少しだけ、心が軽くなるようだった。
「じゃあ、掃除、頑張ってね」
僕の言葉に、綾野さんはうなずく。
「では後ほど、部室でお会いしましょう。ごきげんよう」
綾野さんは丁寧に頭を下げた。僕は部室へは行くつもりもなかったけれど、でも黙って、うんと頷いた。
そのときだった。
綾野さんの手から、すうっと青いバケツが離れる。こん、と軽い音がして、廊下の床に跳ね返る。
「綾野さん?」
どうしたの? と問いかけようとした言葉は、のどの奥で凍りついた。
綾野さんの顔から、表情が抜け落ちていた。猫を思わせる切れ長の目はときどきぱちぱちとまばたきはするけれど、何も見ていない。両手からは力が抜けて、だらりと脇にたらされている。身体はほんのわずかに、ふらりふらりと前後左右に揺れて、その姿はまるで、操り人形だった。
「綾野、さん……?」
突然の変化に戸惑いながら、僕が一歩前へ踏み出したときだった。
綾野さんの桃色の唇が小さく開いた。
「ついて来てください」
そのままくるりと背中を向けて、歩きだす。
「ちょ、ちょっと、綾野さん?」
僕が声をかけても、綾野さんは振り返ろうとはしない。身体はほんのわずかに揺れ続けているけれど、足取りはしっかりしている。
「どうしたの? 綾野さんってば!」
声をかけても、綾野さんはそのまま歩き続ける。周囲には掃除をしている生徒がいて、そのうちの何人かが綾野さんの様子というより、大きな声を上げる僕に怪訝な目を向けてくる。それ以上大きな声を出すこともできず、僕は綾野さんの後を追った。
綾野さんは一度も振り返ることなく、やがて校舎を出て中庭を抜け、校門にたどり着いた。そして門をくぐったとき、綾野さんの足がぴたりと止まった。
「ねえ、どういうこと? 大丈夫? 体調悪いの?」
僕が隣に並んで問いかけても、やはり綾野さんは人形のような目で、ぼんやりと前を向いているだけだ。
一体、どうしたんだろう? この様子は明らかに普通じゃない。もしかしてなにか、病気なんだろうか? 四月に一カ月学校を休んだって言ってたし、綾野さん、丈夫なほうじゃないのかも。誰か先生を呼んできたほうがいいのだろうか?
僕がそんなことを思ったとき、目の前に大きな、黒い自動車が滑り込み、ほとんどブレーキの音も立てずに停車した。
図ったようなタイミングで綾野さんが助手席のドアを開けて車に乗り込む。
「ちょ、ちょっと、綾野さん……?」
僕が声を上げたとき、後部座席のドアが、タクシーのように、自動で開いた。屋根に隠れて顔は見えないけれど、奥のシートにはどうやらスーツを着た男の人が乗っているらしい。
その人が長い腕を伸ばして、ちょいちょい、と僕を手招きした。
「ちょ、ちょっと……」
知らない人の車に乗っちゃいけません、という子供の頃の教えを思い出すまでもなく、どう考えても怪しいその様子に、僕が身を引いたときだった。
スーツ姿の人が、言った。
「君の知りたいことを、私なら教えてあげられると思う。イレギュラの、野島浩平くん」
つづく
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