「今日はカブキですね?」
綾野さんは目をキラキラさせている。
「そうよ! やはり、日本文化研究会を名乗る以上、一度はきちんとやっておかないとね」
何が、きちんと、なのかはよく分からないが、唐島さんはきっぱりと言い切った。
綾野さんがやって来たことでようやくほんの少しだけ落ち着きを取り戻した部室で、僕は、はあ、と息をついた。
「それで、唐島センパイ、演目は? スケロク? シバラク? オンナゴロシアブラノジゴク?」
「それはこれから考えるわ!」
考えてなかったんか。
「それよりもこの間の話、考えてくれた? 演劇部が必要としてるのは、綾野のような人材なの! どう? 私と一緒に、芝居に挑戦してみない!?」
「私、お芝居なんか無理ですよ」
白塗りにがっちり両肩を掴まれて演劇部に勧誘されるという異常な状況にも綾野さんは動じることなく、にこにこと笑っている。見た目は普通っぽいけど、もしかして、肝の座った子なのかもしれない。
綾野さんが文研にやって来たのは、つい二週間ほど前の、ゴールデンウィークが明けた頃だった。
「あの、ここは、日本の文化を研究する部活なのですか?」
たまたま部室に一人でいた僕は、そのストレートな質問に首を捻って答えた。
「まあ、そう、かな?」
その頃は、唐島さんの変なムーブメントも始まってなくて、一応、新入部員の勧誘なんかもやっては見たけど、こんな訳の分からない部に入ろうなんて新入生は一人もいるはずなかったから、僕たちは以前と同じような、ダラダラとした平和な日々を過ごしていた。
駄菓子もマンガも日本を代表する文化だ! というのは先代の部長の名言だが、でもだからといって僕たちがやってるのは駄菓子を食べてマンガを読んでるだけで、僕らは日本の文化について研究しているわけでもないんだけど、でも、綾野さんは、僕の返事を聞くなり、安心したようにほっとした顔になった。
「あの、でしたら、突然ですが、私、一年二組の綾野萌を、この部に入れてください!」
「え? ちょ、ちょっと、早まらないほうがいいんじゃない?」
思わず僕は正直に言ってしまったのだけど、でも、そのとたん、綾野さんは悲しそうな顔になった。
「ダメですか?」
「いや、ダメというよりもその、君のためを思うと……」
「入部試験とかあるなら、私、頑張ります。それとも、もう、定員に達して締め切ったのでしょうか? 一名ぐらい、なんとかなりませんか? 私、肩幅小さいので、席を詰めるとかすれば」
一応、日本文化を研究するという看板は掛かっているけど、こんな部に入ったらみんなが思い描いているような楽しい高校生活とは無縁になるよとか説明したほうがいいのかなあ。
よく見れば綾野さんは、ちょっと猫っぽい顔立ちの、なかなか可愛い子だ。かなりスリムで、緊張しているせいかちょっと顔色も良くないけれど、なかなか運動神経もよさそうだし、運動部とか入ったりして正しい青春を謳歌したほうがいいのでは。
僕がそんなことを考えていると、綾野さんは切迫した様子で、ずい、と前に身体を乗り出した。
「どうしてもお願いします。実を申しますと、私、あまり日本のこと、よく知らなくて。だから日本の文化を勉強させて頂きたいのです」
「え?」
どういうこと?
「去年まで、アメリカに住んでいたのです。それで、父の仕事の都合で帰って来ることになりまして」
ああ、なるほど。だからさっきから、ちょいちょい言葉づかいがおかしいのか。でもおかしいって言っても我が家の居候ほどではないから、それほど気にはならないけど。
「日本の学校通うのも初めてだからちょっと分からないこともありまして。それに、ちょっと身体を壊して一か月ほど入院しておりましたために学校を休んだりいたしていたものですから、ちょっとまだ学校、馴染めていません」
「そ、そうなんだ」
「それで、あの、日本文化を研究しているこの部で勉強して、早く日本に溶け込みたいのです。ですから、なんとか入れてもらえないでしょうか」
新しい学年の最初に長く休んでしまうと、それから周りになじむのはなかなか難しい。それが新しい学校だったらなおさらだ。入学して一カ月も経てば、一緒にいる仲のいい友達のグループなんかは、もう決まってきてるし、そこに新しく入って行くのは簡単じゃない。それが日本に慣れてない、帰国子女ならなおさらだろう。
そんな彼女が、規模も小さくて入りやすそうで、しかも「日本文化研究!」などと謳っている部に飛びついても不思議じゃない。
「でも、僕たち、それほど一生懸命日本文化について研究しているわけじゃないんだけど……」
五重ぐらいオブラートに包みまくった僕の言葉に、綾野さんはこくりとうなずいた。
「構わないのです。それでも絶対に皆さん、私よりも日本文化にはくわしくていらっしゃると思うのです」
「じゃあ、もうすぐ部長も来るから、ちょっと待ってなよ」
かくして綾野さんは文研の一員となり、新入部員の誕生に刺激を受けたのかどうか、唐島さんの迷惑な奇行が始まり、現在に至る、というわけなのだった。
「そういや綾野ちゃん、ゴールデンウィーク、どっか行った?」
里見が緩みそうになる頬を気合いで引きしめて尋ねる。気合いが空回りしているのか、なんだか古畑任三郎のモノマネみたいな声になってしまっているが、それはともかく、美少女好きの里見にとっては、こんな可愛い後輩が出来たというのが、嬉しくてたまらないのだろう。
「はい、家族で少し、旅行に行きました。父が仏像を見るのが好きで。みなさまはどうなさいましたか?」
みんなは芝居の稽古とか秋葉原に遠征とか妹の世話とか答えている。
「野島先輩は?」
「え、あっと、僕?」
先輩、って呼ばれるの、なんだか照れくさいし、むずむずするな。
僕は中学の頃は帰宅部だったし、ちはるのように生徒会活動とか、そういうものもやってなかったので、先輩、と呼ばれることは初体験なのだ。綾野さんが入部して二週間近くになるけれど、まだ、慣れない。
「えっと、特に、何も……」
なんとなくどぎまぎしつつそう答えながら、僕はゴールデンウィークの間に掛かって来た、二本の電話のことを思い出した。
ああ、そうだ。
そろそろ、返事しないとなあ。
つづく