久しぶりにマクドに入ってビッグマックを注文した。たぶん三年ぶりぐらいだと思う。ビッグマック、ときどき食べたくなるのである。
そうして箱を開けた瞬間、思った。
こんな小さかったっけ?
なにしろ、ビッグマックである。ビッグなのである。「小さい」と思われたらもう、それはビッグマックではない。ビッグマックにとっては存在の危機である。もちろん、目の錯覚であるかもしれない。あるいは自分のイメージのなかで大きさが膨らんで、現実を置いてけぼりにしているのかもしれない。に、しても小さい。
昔、ビッグマックのCMで、父と息子がふたりでマクドに行って、「ビッグマックを食べられるようになったらお兄ちゃんだな」云々というようなのがあった。自分が最初にビッグマックを食べたのがいつだったかは覚えていないが、そのときは確かに、「大きい」と思ったし、実際に一生懸命口を開けなければ入らなかった気がする。
では自分が大きくなったからか? それも違うだろう。二十年ぐらい前から、もう結構大きい。
となると、やはりビッグマックが小さくなったのか。実を言えば、以前から「実はそんなに大きくないよな」と思うことはないではなかった。が、はっきりと「小さい」と思ったのは初めてである。
このご時勢のことである、食品が縮むというのは、決して珍しいことではない。が、何度も言うが、なにしろビッグマックである。レタスが千切りに変わったり、容器がプラスチックから紙に変わるどころの騒ぎではない。ビッグマックを縮めるのは、ビッグマックの本質を歪めるに等しい行いである。そして、一度縮めた食品は決して元の大きさに戻ることなく、永遠に縮み続ける。
そんなことを思いながら食べたビッグマックは、記憶の中にあるものよりもややしょっぱかったが、変わらぬ味だった。そしてこの、考えてみれば旨いのかそうでもないのか分からない味もまた、ビッグマックの本質よな、と思った。