8月某日 油断したい

いま一番何がしたいですかと聞かれれば、油断したいと答えるだろう。
「油断大敵」というように、油断はよくないものとされているし、実際まあそうだろうな、とも思う。(熟語というのは普通のことばかり言うので少しつまらないところがある。「油断大敵」。当たり前である。せっかくなのだから、「毒を食らわば皿まで」とか「船頭多くして船山に登る」のような、パンクな魂を持って欲しい)

ちょっと話が逸れたが、とにかくたまには、油断したいのである。
考えてみれば、生きる苦しみの半分ぐらいは「この先どうなるのか分からない」ということが原因で、先のことが分からないから不安になる。もし、を言い出したらキリがないのに、「何が起きてもいいように」と先回りして準備したり、心構えをしようとする。が、誰にも先のことは分からないし、考えれば考えるほど、次々に「将来起きるかもしれないこと」が頭に浮かぶ。この瞬間、空から隕石が降ってきたらどうしよう、とかいうところにも至りかねない。つまりこれが「油断していない」状態なわけである。とても苦しいのである。

逆に、油断していると、何も考えない。未来を憂いず、過去を悔いず、失敗の可能性など考えず、のほほん、としている。この瞬間のみである。一歩先に何が起きるのかなど、少しも頭にないのである。いい。とても、いい。

とはいえ現代社会で、のほほん、を保つのは非常に難しいことでもあるし、いつも、のほほん、としているとそれだけで落伍者とみなされたり、不利益をこうむったりすることも多かろうから、のほほん、ともしていられないのだが、たまに、ごくたまには、油断したい。あと、「のほほん」という擬音語を最初に考えた人は天才。

ところで今、ちょっと気になって「油断」の語源を調べたところ、いくつか出てきて、一つは延暦寺の法灯を消さないように油を足し続けることから来ている、という説。これはまあ、いいのだけど、もうひとつが、ある王様が部下に油の入った鉢を持たせて絶対にこぼすな、こぼすと殺す、と命じ、その部下は注意深く行動して鉢から油をこぼすことはなかった、という説。なんだその状況。パンキッシュ。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: