二十代の頃、バイトしていた会社の同僚にHさんという人がいた。歳が近かったことや、ものの考え方が似ていたこともあり、割と親しくしていた。今となってはすっかり、疎遠になってしまったのだが、ときどき、そのHさんのことを思い出す。しかしそれは、「あの人いい人だったな」とか「あんな話をしたな」とか、そういう文脈で思い出すのではない。Hさんのことを思い出すのは、必ず「上着を脱ぐとき」だ。
その事件が起きたのは、初夏の頃だったと思う。その日、Hさんは「ちょっと昼食べてきます」といつものように外出し(社員が揃うのは11時ぐらい、という会社だったので、昼といっても3時とか4時とか、そういう時間になることも多かった)、そしてそれきり、戻らなかった。ある意味ではアットホームな、少人数の会社だったが、サービス残業は当たり前で、労働環境は悪かった。残された我々は、「もしかして激務に耐えかねて失踪したのでは」と、囁き交わした。Hさんから連絡があったのは3時間ほど後のことだった。連絡を受けた会社のえらい人によれば「どうやら救急車で病院に運ばれたらしいが、くわしいことは分からない」という。
翌日、Hさんはけろっとした顔で出社してきた。そして「大丈夫なのか」と訊ねる我々に向って、重々しく頷くと、「実は肩が外れた」と言ったのだった。
聞けば、食事をしようとマクドナルドに入ったHさんは、注文してトレイを受け取ると空いた席につき、上着を脱ごうとしてちょっと無理な姿勢になった。そのとき肩に激痛が走ったのだという。関節が脱臼したのである。その後、病院に運ばれて事なきを得たのだが、診察した医者には「寝不足や疲れが続くと、上着を脱ぐぐらいの動作でも肩が外れることがあるから注意したほうがいい」と言われたらしい。「だからみんなも、上着を脱ぐときは気をつけたほうがいい」と、Hさんは真顔で語った。
Hさんが今、どこでどうしているのか知らないし、そのとき、一緒に働いている人のことも分からない。が、ファストフードの店に入って上着を脱ごうとした瞬間、ほぼ必ずと言っていいほど、Hさんのことを思い出す。寝不足や、疲れているときは特に。そして、「もしかしたら肩が外れるかも」と思い、動作が慎重になる。きっとこの先も、どこかで上着を脱ぐたびに、Hさんのことを思い出すのだろう。