1月某日 おいしくないもの

昔、打ち合わせをかねてレストランで昼食を食べたときのことである。場所は丸の内の、高いビルの上のほうであった。イタリア料理の、というよりも、「イタリアン」と呼ばれたがっているだろうな、という店で、ウエイターは(これもきっと別の、それっぽい呼び方があるはずだ)、背の高い、美男の白人男性が数人。何度も言うが、丸の内である。

 この店の食事が、非常にあれであったのである。パスタは妙に塩がきつく、サラダに掛かっているドレッシングは完全に水分と油が分離していた。それはまだ、「そういう味だ」ということかもしれない。が、一番あれだったのは、パンであった。そのパンは冷たい皿の上に載って、冷えて硬くなっていた。それを美男の白人青年が、「どーぞ」と持ってくるのである。当然丸の内の、高いビルの上のほうであるので、価格は二千数百円。決して「とてもまずい」というわけではない。しかし、パンを、または皿を温める、という発想すら、この店にはないのだと思うと、寒々とした気持ちになった。

 かと思えば、こういう食事もあった。それは親戚の結婚式の、披露宴のコースメニューの一品として現れた。器は厚手の、素朴なもので、蓋を取ると焼きたてのグラタンのように表面はぐつぐつ言って、非常においしそうであった。しかしソースとチーズに覆われて中身が何かは判然としない。そこでスプーンを突っ込んだところ、マッシュポテトを団子にしたようなものが現れた。ははあ、ポテトグラタンに一工夫したものだな、と思い、食べた。

 最初は何が口に入ってきたのか分からなかった。いや、分かったのだが、脳が認知を拒否した。それはマッシュポテトではなく、白玉団子であった。しかし、こんなところに白玉団子がいるはずがない、けれど、それは白玉団子以外の何物でもない、さらに、中に「しゃり」という食感のものが射込んである。リンゴであった。ついでに言うなら、ソースはカレー風味なのだが、なぜかちょっと、甘い。もうお分かりかと思うが、美味しくなかった。が、こういうお祝いの席で料理の美味しい不味いをいうのは無粋の極みである。一緒にいたのは人間のできた上品な人たちだったので、その場では誰も言わなかった。ただ、何人かの眉毛が、ちょっと動いた。

 宴の後、一緒に参加した人たちの間では、「あの、まずい食べ物はなんだ!」という話題で持ちきりであった。もうひとつ言えば、宴の最後にはそのレストランのシェフらしい白帽子の男性が見送ってくれたのだが、「この人があの、まずい食べ物を考え出した人なのか」とまじまじと見つめてしまった。そのときは、単に「笑ってしまうぐらい美味しくない」と思ったのだが、そのシェフが「どういう形であれ、長らく記憶に残る一品を」と考えたのであれば、その思惑はまんまと成功したということになる。

 美味しい料理、というもののことは案外すぐ忘れるが、美味しくなかった料理のことはずっと覚えている。それは美味しくない料理が、どんな形であれその人の核心に触れるからかもしれない。


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